夢の雫、薔薇色の烏龍
(ゆめのしずく、ばらいろのウーロン)


7.スパイが二人

 ここ、最近、ある噂が新宮殿を駆け巡っていた。
 イブラヒムが欧州に情報を売っているスパイだというの噂である。
ベネチア人を自宅に住まわせて、帝国の情報を売っているというのだ。噂の出どころは、
おそらくイブラヒムの失脚を狙う高官たち。噂は急速に広まっていった。
 イブラヒムの屋敷にも、もちろん噂は届いていた。メフメトたち小姓たちにも心配は広がる。
 そんな心配をしているときに、屋敷の門の鈴を鳴らす音があった。
玄関もほうがざわついている。いつもとは違う来客があったらしい。
 ラムセスはそうっと覗きに行くと、そこにはヒュッレムの姿があった。アルヴィーゼのいる居間に
通されてた。後宮を抜け出して側室がわざわざ来た理由は……。

 イブラヒムがイェニ・チェリ(皇帝親衛歩兵隊)に拘束されたというのだ。
 もちろんスパイの疑いをかけられた理由で。これからイェニ・チェリがアルヴィーゼも捕らえに
来るから、一刻も早く逃げろという。
 アルヴィーゼはガラダ地区にある父親の家へ逃げるといい、準備に取り掛かった。
「待ってください。ここにいるラムセスも一緒に連れて行ってください」
 ヒュッレムが叫ぶ。
「えっ?」
 部屋の外でこっそり話を聞いていたラムセスは硬直する。まさか自分の名前が呼ばれるとは、
それも一緒に逃げろなんて言われるなんて微塵も思っていなかったからである。
「アルヴィーゼ様の噂と一緒に、得体のしれないエジプト人も滞在しているという噂も
広がっているんです。危ないので彼も連れて行って下さい」
 ヒュッレムは懇願する。
「わかった。行こう、ラムセス」
 アルヴィーゼはラムセスも一緒に連れて逃げる準備をした。
「なんだよ、得体のしれないエジプト人って……」
 ラムセスは納得いかなかったが、アルヴィーゼと一緒に逃げることにした。

 
 ガラダ地区はボスボラス海峡の向こう側。ラムセスははじめて船でボスボラス海峡を渡った。
バザールに行ったり、茶会の会場に行ったりと、宮殿の外には何度か出たことがあったが
船は初めてであったので、そわそわと落ち着かなかった。
 ガラダ地区は宮殿のある地区とはまったく違う場所だった。バザールと同じくらい
様々な人種の人たちがいる。ラムセスがいても好奇の目を向けられることはなさそうだ。
 聞けばガラダ地区は欧州の商人たちの居住区だという。確かに、ここは住居が多い。
大きな屋敷もあったが、簡素な家も多くあった。道に並ぶ商店も日常に必要なものを揃えた店が多い。
 ガラダ地区に着くと、ラムセスの目を奪った建物があった。


 

「アルヴィーゼ、あれは何だ?!」
 ラムセスは天に向かってそびえる三角帽子の塔を指して言った。
「あれはガラダ塔だよ」
「ガラダ塔……。すごいな、古めかしいが立派な塔だな」
 目の前にある巨大な塔にラムセスは口をポカンと開ける。
「あの塔には登れないのか」
 ラムセスが聞くと、アルヴィーゼは眉間に皺を寄せる。
「ガラダ塔は牢獄だぞ。……入りたいなら入ってもいいが……」
「そうなのか。こんな立派な塔が牢獄とは…さすが……」
 未来だな。という言葉は飲み込んだ。アルヴィーゼは俺が古代エジプトからきた者とは知らないはずである。
「さて、ガラダの家に帰ってきたはいいが、やることがたくさんあるんだ」
 アルヴィーゼは忙しい忙しいと独り言を言いながらも嬉しそうであった。
「せっかく一緒にきたんだ。ラムセスも手伝わないか?」
「何をだ?」
「スレイマン陛下のベオグラード遠征に使用する大砲の準備だよ。欧州もまだ持っていない
最新型の大砲だ。見てみたいだろう?」
「大砲! やるやる。是非手伝わせてくれ!」
 大砲と聞いてラムセスの胸は躍る。大砲について知りたくてたまらなかったのだ。
それも最新型である。ラムセスは嬉しくて仕方がなかった。

 その後、イブラヒムが審問されている会議の場に、アルヴィーゼは自ら出廷していった。
最新型の大砲とともに、アルヴィーゼはある情報を持ってきた。
 ハンガリーのラヨシュ2世がオスマン帝国との和約の更新を拒み、オスマン帝国に敵対の意を
現わしたのである。ここで何もせず黙っていてはハンガリーをはじめとする欧州各国に侮られてしまう。
ベオグラードはハンガリーを攻撃するための入口となる要衝。
ハンガリー守備兵が守る難攻不落と呼ばれるベオグラードを落とすには、沢山の武器が必要だったのである。
新宮殿の庭園にはアルヴィーゼとイブラヒムの準備した最新型の大砲が並ぶ。 
 イブラヒムのスパイの疑い晴れ、スレイマン1世はベオグラード遠征の勅令を発した。


***

「ああ、ベオグラードへ行きたかった」
 ラムセスは雲一つない空をみて呟いた。宮殿の庭にはトトメス3世……いや、今の時代風に言うと
テオドシウスのオベリスク。その向こうにはモスクの球状の天井とミナレットが数本見えていた。
この光景もだいぶ見慣れてきたものだ。
 ベオグラード遠征に置いて行かれたラムセスは、イブラヒム邸でアルヴィーゼと過ごすことが多くなった。
そこで一つ気づいたことがある。どうやらアルヴィーゼとスレイマン陛下の妹、ハディージェが
恋仲であるということだ。二人はイブラヒムの屋敷で度々密会していた。
 アルヴィーゼはハディージェと結婚するために、相応の身分と財産が欲しいと言っていた。
 
 ハディージェと一緒に時々ヒュッレムも同席することがあった。そんなとき、ハディージェはある提案をした。
ヒュッレムが他の側室とは違うという演出のために、戦地ベオグラードにいるスレイマンに書簡を送れというのだ。
その提案を受けたヒュッレムは手紙を書いた。
 ヒュッレムの持ってきた書簡は2通。スレイマン宛てのものと、イブラヒム宛てのもの。
スレイマン宛の書簡は正使に持たせ、イブラヒム宛ての書簡はもうすぐベオグラードに赴く
アルヴィーゼが持っていくことになっていた。

 今、ラムセスの目の前には2通の書簡がある。

 細長い美しい装飾の施してある筒。片手に持つとちょうどよい長さの筒である。
筒には惚れ惚れするような美しい模様も描かれている。
 粘土板に文字を刻んで焼き、封書代わりにもう一回粘土で二重に包む書簡しか知らないラムセスにとって、
この書簡は珍しいものだった。
 ラムセスは細かい薔薇の模様のあるほうの書簡を手に取った。
「この中に文字を書いた紙が入っているのかぁ〜」
 ラムセスは興味津々で書簡をあらゆる角度から見る。
「ここの端から手紙を出すのかな?」

 カポン!
 
 書簡の封が開いてしまった。
「あれ、開いちゃったよ」
 ラムセスは封の開いてしまった書簡の中を覗く。中にはもちろん、手紙が入っている。

『金の星よ、銀色の月に一番近い天に輝く金の星よ
月を見ればあなたが目に入ります 
見ることは許されぬとわかっているのに見てしまいます
金の星よ、その美しさにわたしはとまどうばかり』

 ラムセスは書簡を読み上げる。
「いやぁ〜こんなラブレター戦地でもらったら、心が動かない男はいないよなぁ〜。わっはっは」

「バカかお前は!」
 ラムセスの金髪にアルヴィーゼのげんこつが落ちる。
「いってぇ〜」
 ラムセスは殴られた頭をさする。
「なに書簡開けてんだよ。それも勝手に人の手紙読み上げて。何考えてるんだ!」
「すまんすまん。書簡がどんな構造になっているか興味があって、ちょっといじったら開いてしまったんだ」
 ラムセスはアルヴィーゼに謝る。
「まったく、すぐに書簡を元に戻せ」
「はい、すみません……でも、万が一、スレイマン陛下とイブラヒムの書簡間違えて渡したら
大変なことになるな」
 ラムセスは咄嗟に思いついたことを口にした。
「スレイマン陛下の分は正使が持っていく。イブラヒムのほうは俺が持っていくから
間違えたりしない」
「いや、正使に渡すときに間違えたらどうするんだ」
「……そんなことしないと思うが」
 アルヴィーゼが言葉に詰まる。
「まあ、見りゃわかるしな。薔薇柄のほうがイブラヒムだ」
 ラムセスがにっこり笑う。
「そうだな、薔薇柄がイブラヒムだ」
「そう、薔薇がイブラヒム……」
 ラムセスは意味ありげに笑う。




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