***天河版こころ***

時代背景は明治ヒッタイトね〜(なんじゃそりゃ…)

第一章 陛下と私    

第二章 彼女と私   

第三章 陛下と遺書


【陛下と私】

 私はその人のことを『陛下』と呼んでいた。だからここに書くときも、敢えて本名は打ち明けない。
そのほうが私にとってもしっくり来るし、別に本名を打ち明ける必要もないからだ。
 陛下と私が知り合ったのは、ハレブの町だった。陛下は、ハレブの町外れの大きな家に住んでいた。
 私はヒッタイト馬事学校の学生であった。
 学校はヒッタイト帝国の首都であるハットッサにあったが、夏の間は、
分校のあるハレブの町で実習だったのだ。
 牧場がある所なんて、もともと辺鄙なところである。実習以外になんの遊ぶ所もない。
学校の友達は、疲れもあって、実習が終わると寝てしまうか、各自の部屋で飲み会をするのが日々だった。
 ある日、実習の終わった私は外の空気が吸いたいと思い、それもただの外の空気ではなくって、
森林からは排出される新鮮な酸素が吸いたいと思い、少し遠くまで足をのばした。
 もともと緑は豊富な場所であったが、足を伸ばした先の、森の緑は素晴らしかった。
日も暮れかかっていたが、森林の隙間から見える茜色の空は、高く高く見えて、何の汚れもない酸素が
サワサワと爽やかな風に乗って、木々の間から降ってくるかのようだった。
 私は健やかな空気を十二分に肺の中に押しこめ、帰る前に少し茶屋で休憩しようと思った。
辺鄙な場所ではあったが、茶屋くらいはあった。そこに陛下はいたのである。
陛下は苦味のある茶をズズズとすすっていた。
 年は私よりかなり上であろう。40…いや、もしかしたら50近いかもしれない。
20代前半である私にとって、陛下は私の親と同じくらいの年であろう。そんな言ってしまえば、
おじさん…だったが、私は陛下が気になって仕方なかった。寂しくお茶をすすっている陛下に
話しかけずにはいられなかった。
 私は聞かれもしないのに、色々なことを陛下に話し出した。今通っている学校のこと。両親のこと。
自分が今までどうやって生きてきたかということ…。陛下に聞いてもらいたくて仕方なかった。
「何故、初対面の私にそんなことを話すのです?」そう陛下からも訪ねられた。私は素直に「わからない」
と言った。わかないけど、惹き付けられるものがあるのだとも言った。「そうですか」と
さっぱり陛下は言い、
「どうです? 学生さん。私の家に来ませんか? あなたの役に立ちそうな書簡…じゃなかった
本がいっぱいありますよ」
 私は陛下に案内されるがまま、喜んで陛下の家へ上がりこんだ。

 それから私は、実習が終わると、必ずと言っていいほど陛下の家へ行った。疲れていたけれど、
陛下と話ができるのが大変嬉しかったのだ。
 陛下は静かな人だった。落ち着いていると言っていいだろう。この世の全てのものを悟っているかの
ようにも感じられた。私は陛下に向かっても『陛下』と呼んだ。
しばし、「陛下でもなんでもないんだから、そのような呼び方はやめなさい」と注意された。
「陛下でなくとも、あなたは私にとって陛下のようなものなのです」そう返すと、
「勝手にしなさい」ぶっきらぼうに言われた。けど、私は陛下に嫌われていないと確信があった。
 陛下には奥さんがいた。5つ、6つ年の離れた、黒い瞳が印象的の可愛らしい奥さんだ。
「あなたも変わった方ね。どうしてうちに…いえ、夫にそんなに懇親になるのかしら?」
「それは奥さん、あなたと同じようなものですよ」
「まあ!」
 奥さんはカラカラと冗談交じりで笑った。私も冗談半分で言ったのだ。
「奥さん、一つ聞きたいことがあるのですが…」
「なあに?」
「陛下は働いていらっしゃらないのですか? いつも家にいるようなのですが…」
 聞いてはいけないことかも知れぬと100も承知で奥さんに尋ねた。
「ええ、今は働いていません。もう、晩秋だとか言って…。まだまだそんな年ではないのに
働くのをここ2,3年止めてしまったのです。でも、ご覧なっても分かるように、生活には困っていません。
私達には子もいませんし…、夫と私が毎日食べるくらいの蓄えはありますの」
「はあ…そうですか…」
 奥さんはゆったりした笑顔で私に話した。
「もうひとつ…、陛下は毎日、夕方になると出かけますよね。小一時間もすると帰ってくるようですが…
あれは一体どちらに行かれているんです?」
 奥さんの顔色が変わった。私は聞いてはいけないことを聞いたのだと、一瞬にして悟った。
しばらくして奥さんは静かに話し出した。
「あれはね…、私から聞いたって言わないでくれる? 夫が毎日、あの時間に出かけるのは
今始まったことじゃないの。結婚してからずっとなのよ」
「結婚してから?!」
「そう、詳しく言うと結婚前からなんだけどね。友人のお墓参りに行ってるのよ。
夫もね。昔はあんなんじゃなかったのよ。今は自分の殻に閉じこもって、他との交流を絶っているように
見えるけど、昔はもっと活発で、誰とも話して、それは素敵な人だったの」
 奥さんは目線を下に向け、悲しそうな顔をした。
「友人のお墓参りに…毎日、陛下は行かれているのですか?」
「そう、確かに仲のいいお友達だったわ。でも、もう30年近く経ってるのよ。
いくらそのお友達が…いえ、これは言っちゃいけないことかしら?」
 奥さんはハッと思ったのか、急に口をつぐんだ。
「そのお友達がどうしたのです? 言えないことなのでしょうか?」
「いえ…実はそのお友達は…変死したんです」
 奥さんは声を小さくして私に言った。
「そのお友達が亡くなってしまってからなの。夫が変わったのは…。いくら変死したからといって…、
30年も引きずるもんじゃないわ。第一、友人が一人亡くなったくらいで、それも30年近くたってるのに、
こんなにも引きずるものかしら? 今までいくら考えても分からないし、かといって、
私を大切にしてくれているのはバシバシ伝わって来るから、聞くわけにもいかないし…」
「そうですか…」
 奥さんのいうとおり、陛下は確かに変わった人だった。平生、奥さん以外に会話をする人は
陛下にはいない。陛下の家に雇われている下女と必要なことだけ、会話を交わす程度だった。
時間のあるときには、部屋に閉じこもって書物を読み、静かに暮らしている人だった。
書物を沢山読んでいるせいか、陛下は大変、頭のよい人だった。知識も技術も発想も、
常人以上にあったと思う。だがその知識も世に出すこともなく、役立てることもなく、ひっそりと家で暮らしていた。
まるで、世を忍ぶように…。謙虚なのか、遠慮深いのか、なんなのか……。私には全く分からなかった。
 しかし―――
 私には陛下を尊敬せずにはいられなかったのだ。
 
 私はどうしても気になって、墓参りに行く陛下のあとをつけたことがあった。
墓は町外れにあった。思えば最初に茶屋で陛下に会ったときは、陛下は墓参りの帰りだったのだろう。
 そっとつけたつもりだったが、すぐに陛下にバレてしまった。
「何をしているのです?」と聞かれた私は、嘘のつけない性格だったので、しどろもどろになってしまった。
「妻に、私が毎日どこへ、何の為にいくか聞いたのですね」
「は…い…」
 私は申し訳なさそうに答えた。
「まあ、いいでしょう」
 陛下と私は、いつものとおり取留めのない話をしながら家へ帰った。
 その晩、私は、陛下の家で夕げをご馳走になった。質素な食事であったが、寮生活の自分にとったら
ありがたい食事であった。
 急に陛下は、奥さんに向かって言い出した。
「ユーリ、私が死んだら、この家をお前にやろう」
「またまた死ぬだなんて…、ご冗談を…。第一どちらが先に死ぬかなんてわからないことでしょう」
「そうですよ、陛下。人の寿命はわかりませんよ」
 私も奥さんも、陛下の言ったことは冗談として受けとめていた。だから、ニコニコ笑いながら返事をした。
現に、陛下も冗談半分で話しているようだ。
「家だけでなくて、私の持っているものはすべてやろう」
「あなたの持っている楔形文字の本なんか読めませんもの。いりませんわ」
「古本屋に売れば金になるさ。ヒッタイトオタクがゴマンといる時代だから…」
「もの好きがいるのね…」
 後になって、陛下がどうしてこのとき、「死」という言葉を出したのかが分かった。奥さんもきっとこのときの会話が
後になって分かる会話だったと、想像もしていなかったことだろう。
「陛下、もう夏も終わりです。私はハットッサの学校に帰らなければなりません。
今までのように毎日は陛下に会いに来ることはできません。私はそれをとても残念に思います。
どうか…手紙を書くので…受け取ってください」
「いいでしょう。あなたが手紙を下されば、私はそれを受け取り、読ませていただきます。
ただ……、すぐに返事が書けるというわけにはいきません。それでもいいですか?」
「はい! もちろんです!」
 私は、陛下と奥さんに見送られて、寮に帰った。奥さんも「またいらしてね」とやさしく私に言ってくれた。


【彼女と私】


 ヒッタイト帝国の首都であるハットッサに帰ってきた。やはり首都、ハレブの町とは違い、人の数が違った。
この雑踏の中で私は学ばなければいけない。
 夏の間、ハットッサに置き去りにした彼女、リュイからこっぴどく叱られた。陛下のもとに通うのに夢中で、
彼女のことを暫し放っておいたのだ。リュイが文句を言うのも無理はない。
「誰か他に女が出来たの?」とも聞かれたが、「それは、テシュプに誓ってない」と答えた。
リュイも信用してくれたようだ。女のもとには通っていないが、陛下のもとに通っていたと…(変な意味なしで・笑)
そうは、流石に言えなかった。実習が忙しくてなかなか連絡が取れなかったと言い訳した。 
 緑に包まれたハレブの町を懐かしく思った。帰ってきたはずなのに、ハレブの町に帰りたいとさえ思った。
緑に囲まれたいだけじゃない…なによりも―――陛下と話したくてたまらなかった。
私は約束した通り、学校であったこと、今勉強していること、夏の間ほったらかしにしてあった彼女のこと…
などなど、取留めのないことを陛下宛てに書きとめた。
 私は何通か陛下に手紙をだした。しかし、陛下の言ったとおり、返事はなかなか来なかった。
返事のこないのに、手紙を書くとは寂しいものだが、それでも私は返事を書いた。
 ハットッサに戻ってから3ヶ月たったある日のこと。自分の担当している馬が、骨肉腫になり、命が危ないときが来た。
馬の骨肉腫。(あるのか?馬に…)もう、この馬は死を向かえるしかなかった。そうは分かっていても
その馬が生きている限り、生きようと必死で戦っている限り、一緒に闘わねばならなかった。
夜も眠れず、付きっきりで交代で看病した。もともと馬の学校であったため。馬の好きな者の集まりであった。
皆、助けようと必死であった。そんなときである…、陛下から返事が来たのは…。
 郵便受けに入っていた自分宛ての手紙。それは陛下からのものであった。随分と分厚かった。
80円では届かないであろう郵便だった。小包といってもいいくらいの厚さだった。
 封を開け、分厚い便箋を開いたとき、「大変だ! 馬が危篤だ!」
そう声をかけられ、私は便箋を閉じ、もと入れてあった封筒に押し込みポケットに入れた。
 馬小屋まで私達は走って行った。その走っている間、…便箋を開けたとき、ふと目に入った一行が
私の頭にこびり付いていた。
「この手紙をあなたが手にしているとき、私はこの世にいないでしょう。既に死んでいるでしょう」
 ―――この一行が私の頭を大きく揺さぶっていたのだった。
 馬はその夜に死んだ。命あるもの、死は避けられないのだ。ゴタゴタしているうちに日が明けて来た。
授業まで一眠りしようと、皆は自分の部屋に帰って行った。私も自分の部屋に戻り、
さっきの陛下の手紙をゆっくりと広げた。



【陛下と遺書】

 私はあなたから、何通かの手紙を頂きました。何度か返事は書こうと思いました。けど、そう簡単には
返事を書く気にはなれまでんせした。あなたもさぞ、イライラしたことでしょう。
 この手紙をあなたが手にしているとき、私はこの世にいないでしょう。既に死んでいるでしょう。
 びっくりなされることとは思いますが、私にはこうすることしか出来なかったのです。
私の過去を償うにはこうするしかなかったのです。あなたも妻も…、私がどうしてこのような人間に
なってしまったか、不思議にお思いでしたね。私は誰にも話さずにひっそりとこの世を去るつもりでした。
もちろん妻にも話さずに…。でも、あなたには聞いて頂いてもいいような気がします。
 
 これはまだ私が学生の頃のことです。あなたと同じ、大学に行っていたときの事なのです。
私は学生のとき、一度に両親を亡くしました。何故かというと伝染病です。あの恐ろしい七日熱で
両親はこの世の人ではなくなりました。私も両親と一緒に住んでいたので、この病気にかかりました。
けど、私の場合、軽い症状で済んだのです。病状も回復してから、両親の葬儀が出されました。
まだ未成年だった私は、叔母に引き取られることになりました。その叔母のところから、
今までどうり、学校に通うことも出来ました。両親の遺産の管理も叔母に任せました。
あまり会ったことのない叔母だったのですが、父の妹だったので、私は信用しきっていました。
 暫くの間、私は今までと同じ生活を営んでおりました。食べることにも、学ぶことにも
なんの苦労もありません。全部、叔母が良くしてくれました。
 ある日、私は叔母に呼ばれました。何の話かと聞くと、叔母の娘であるイシン=サウラを
貰ってくれないかと言うのです。
 叔母の名はナキアと言いました。
「冗談じゃありません。ナキア叔母さん。私はまだ学生ですし、結婚なんて考えて事もありません。
それに、イシン=サウラは従妹です。私は彼女に何の感情も抱いておりません」
 襖の後ろですすり泣くイシン=サウラの声が聞こえました。ですが、同情なんてしていられません。
結婚なんてする気はもともとないのですから…。
「今すぐに結婚とはいいません。あなたが学校を卒業してからで結構です。
だけど籍だけは…籍だけはいれてくれませんかね。サウラのあなたを愛する気持ちは本物です」
 叔母はどうしても、私とサウラを結婚させようとしていました。口ではサウラのことを思っていると
言っていましたが、何か変でした。まだ学校も卒業していないサウラに結婚をさせようなんて、
普通の常識ではありません。
 私はおかしいと思い、裏に手をまわして、叔母のことを調べました。
 そしたらなんと!
 ―――なんと、叔母は父や母の残した遺産を使いこんでいたのです。私とサウラを結婚させれば
同じ懐のものになると考え、使いこんだことがバレないと思ったのでしょう。
 それで必死に結婚を勧めていたのです。
 私は叔母に憤りを感じました。財産の一部で弁護士を雇って、叔母から両親の残した財産を
奪い返しました。もちろん私がもう、叔母の家にいることが出来ないのは言うまでもありません。
 叔母の家を出て、何処か下宿しようと思いました。しかし、なかなかいい下宿先が見つかりません。
金はあるにはありましたが、なるだけ安く下宿したいと思っていたからです。大学の上の大学院にも
私は行きたいと思っていました。だから、なるだけ出費を抑えたかったのです。
 あるとき、ある茶屋の主人から『素人下宿はどうかね?』と聞かれました。
「素人下宿?」
「そう、ちょうどうちによく来るお客さんでね、下宿人を探している人がいるんですよ」
 茶屋の主人の話はこうでした。
 それはある軍人の家族…、いえ遺族の家だと言うのです。なんでもその軍人はエジプトとの戦争で
帰らぬ人になってしまったそうです。もとから、高級軍人の家だったので、広い家だったそうです。
無人で寂しくて困るから、誰か気のいい学生さんかなにかがいたら紹介して欲しいとのことでした。
その家には未亡人とその一人娘がいるだけでした。私は茶屋の主人に紹介してもらい、
未亡人と面接をして、このもと軍人の屋敷に下宿することになったのです。

***
 未亡人は、はっきりした人でした。しっかりした人と言う言葉も合っているかもしれません。
きりりとした風格があり、てきぱき物事をこなし、はっきりとものを言う女性でした。
また、よく気のつく女性でもありました。軍人の妻というものはみんなこう言うものなのか? 
とも思いました。未亡人の名前はハディ。この未亡人のことを、私は奥さんと呼んでいたので、
この先、奥さんと呼びましょう。
 奥さんは、軍人である夫が亡くなってから、娘一人と身の回りの世話をする侍女一人で、
この広い家に住んでいました。私は奥さんから8畳の和室を自分の部屋用に貰いました。
風呂やはばかり等は、もちろん共同です。食事は奥さんやお嬢さんたちと一緒に膳を並べることになりました。
 一人暮しの男にとって、一緒に食事を出来る人がいるとは、とても嬉しいものでした。
 少し学校からは遠くなったけれども、生活には困りませんでした。
遅くまで本を読んでいても、広い家だったので、光りは漏れても奥さんの眠りの妨げにはならないし、
なによりも、叔母の家にいたときよりずっと、いごごちの良い場所でした。
 私のいごごちが良いと感じた原因は、衣食住の生活だけではありません。
自分でも初めは気づかなかったのですが、奥さんの一人娘、お嬢さんの存在が私のいごごちの良さを
よりいっそう高めたのです。
 お嬢さんのことは、最初会ったときは何も感じませんでした。中学校に通う普通のなんの
見栄えもしない女だと私は感じました。もとから私は、書物にばかり興味を寄せ、あまり女というものに、
興味はありませんでした。だからお嬢さんも、私にとって例外ではありませんでした。
 お嬢さんは元気のよい人でした。私が帰ってくると必ず元気に、「お帰り」と声をかけ、
しばし、うるさいと思うときもありました。下宿の身なので、あまり顔に出さないようにと
心がけたつもりなのですがお嬢さんは、私が本を読んでいるときには、余り、はしゃがなくなりました。
静かに私の部屋を覗いて「お勉強? 頑張ってね」と声をかけるのです。
 数ヶ月経つと、下宿した当初より色々と、奥さんともお嬢さんとも話しが出来るようになりました。
奥さんの印象は、初めと変わりませんでした。軍人の妻らしくキビキビ、しっかりした人で、
抜け目はないようにも思われました。しかし、お嬢さんは私の第一印象と違いました。
お嬢さんも、自分のことしか考えないありふれた娘とばかり思っていましたが、全然違いました。
もともと軍人の娘だからでしょうか? 幼い顔に似合わずハキハキものは言うし、その意見も
現代にはない、意標をついた発想でした。その発想と、お嬢さんのみかけからは想像のつかない利発さが、
私の心を惹きました。お嬢さんの黒い瞳も、出会った当初より、澄んでいるようにも思いました。
 こうして私はお嬢さんに心を寄せて行ったのです。
 お嬢さんに心をどんどん捕らわれていく中、私はこの下宿にもう一人男を住まわせなければならなくなりました。
その男が、この家の家族の一員となった結果、私の運命は非常に変化していくことになったのです。

***

 その男は、私の幼い頃からの友人でした。その友達の名をここではRと呼んでおきましょう。
Rは、私の幼馴染でした。幼稚園のころから、ずっと一緒に育ってきたのです。Rの家は医者でした。
姉妹の多い中の一人息子でした。Rも私も小、中、高、大学と順調に、共に育って行きました。
 ところがあるとき、Rの父が亡くなってしまったのです。Rの家に男はRのみとなりました。
先程も申した通り、姉妹はいるものの男兄弟はいなかったのです。Rはすぐに実家の医者を継ぐように
言われました。しかし、Rは医者などになりたくありませんでした。
医者などではなくファラオになりたかったのです。それは私もずっと前から知っていました。
私とRは良き友人であり、よきライバルでもありました。
 ファラオになりたくて、彼は家を飛び出したのです。飛び出した彼にとって、
どこにも行く宛てはありません。Rは「自分でなんとかする」と言っていましたが
私は彼を放っておくわけには行きませんでした。
 初めは気の進まなかったRですが、「試しに一週間だけ住んで見ろ」との私の言葉に乗せられて、
彼はそのまま、この家族の一員となりました。
 新しい男が入って来たからと言って、お嬢さんに対する気持ちは何に変化も私にはありませんでした。
Rは堅物な男です。また、風変わりな男でもあったのです。年頃の娘と色恋沙汰など、
彼には到底似合わないもののように思えたからです。
 風変わりを象徴するように、彼は薔薇の花が大好きでした。「やめろ」という私の言葉も無視して
薔薇の花を自分の部屋に持ち込みました。この気高く、美しく咲く薔薇が自分の一番の恋人だとも言っていました。
 Rの部屋に沢山の薔薇の花があるのを見て、「一本くらいお嬢さんにあげたらどうだ?」
と尋ねました。Rは「俺が薔薇を人にあげるときは、薔薇相応の価値のある女じゃないとやらない」
と軽くあしらわれてしまいました。現に私も、Rの薔薇なんて一本も貰ったことはありませんでした。
第一、欲しいとも思いませんでしたが……。
 Rはやはり変わり者で、人との交流を避ける男でした。奥さんやお嬢さんにでさえも、
これといって、自分から話しかけることはありませんでした。
 私はこのままずっと、Rが自分の殻に閉じこもってしまうのではないかと心配でした。
家族に捨てられ、このまま一人で生きていくわけにはいきません。わたしはRに直接、
「もっと人と交流を持つように」と言いました。想像はしていましたが、もちろんRは私の言葉など
聞こうとしません。仕方なく私は、奥さんやお嬢さんに暇な時でいいから、なるだけRに
話しかけるようにと言ってみました。奥さんやお嬢さんは私の言葉を真に受け、
なるだけ、Rに話しかけていました。Rはうっとおしそうにしているのが分かりました。
 暫くたつと…、少し、ほんの少しですがRは変わってきました。ふつうにRを見ているものでは
この変わり具合は分からないと思います。幼少の頃から一緒に育ってきた私だからこそ、
この変化に気づいたのです。
 ―――その変化とは、私にとってあまり喜ばしいことではありませんでした。
 Rはお嬢さんにだけ心を開いたのです。心を開いたとは大袈裟かもしれませんが、
お嬢さんにだけは、一言二言、口を聞くようになったのです。Rは変わりました。
食事のときなどは、今までなかったのにRのほうからお嬢さんに話しかけるようになりました。
 私は慌てました。Rがお嬢さんのことを好きになったのでは? またお嬢さんがRに心を惹かれたのでは?
来日も来日も眠れぬ夜を過ごしました。
 ある日、いつものとおり学校から帰りました。玄関をまたぐと、奥さんの靴はありませんでした。
どこかに出かけているのでしょう。私は靴を脱ぎ家へ上がりました。自分の部屋に行くとき、
Rの部屋の前を通らなければ、自分の部屋には行けませんでした。相変わらず、Rの部屋は薔薇まみれです。
Rの部屋が近づくと薔薇のかおりがツーンと鼻をとおりました。
すると…薔薇の匂いと一緒に、笑い声が聞こえたのです。襖の隙間から、気づかれないように覗くと、
Rとお嬢さんが楽しそうに話しているではありませんか! 私のシンゾウは高鳴りました。
何を話しているのかは上手く聞き取れません。
 次の瞬間―――、私は心臓を薔薇のトゲで刺されたような気持ちになりました。
 Rが、薔薇の花を一本折って、お嬢さんにあげたのです。Rが以前、言った言葉を思い出しました。
『薔薇相応の価値のある女じゃないとやらない』
 そう言ったことを思い出したのです。Rのお嬢さんに対する気持ちは決定的なものでした。
私もRも同じ人を好きになってしまったのです。どうすればいいのだろう? 考えました。
Rに同じ気持ちだと話すか、お嬢さんに気持ちを打ち明けるか……、
 それとも―――
 私の頭は混乱し、勉強どころではなくなってきました。
 Rの気持ちを知ってから、私はRを観察…いえ、監視するように彼の行動をみはりました。
よく考えてみると、私よりRのほうが勉強もできました。クラスでは同じトップクラスでしたが
Rのほうが少しばかり私より勝っていたのです。そんなちょっとの差なんて、今まで気にしたことは
ありませんでした。体つきも同じくらいだと思っていましたが、彼のほうが色が濃い分、
引き締まっているようにみえました。容貌も…私より彼のほうがいいような錯覚も起こしてきました。
 
 私はRに自分の気持ちを打ち明けようとしました。けど、なかなかチャンスがつかめませんでした。
あとから思うと、このときチャンスがつかめないのではなくて、Rに打ち明ける勇気がなかった
と言った方が当たってるかもしれません。
 そんなある日。Rからちょっと散歩に行かないかと誘われました。私から誘うことはあっても
Rから誘うことは滅多にありません。二つ返事でいいと言いました。
 学校の話など、気にもならない話をしていると、Rはお嬢さんの話に話題を傾けました。
このときの私にとって、お嬢さんの話をRの口からされるとは、とても心苦しいものでした。
早くこの話題を切り替えようと思い、話を他の方向に持って行っても、すぐにお嬢さんの話題にRは
戻してしまいます。私はイライラ…いえ、ハラハラしました。
 もしかしたらこのままRは、自分のお嬢さんに対する気持ちを私に打ち明けるのではないかと考え始めました。
その考えは当たりました。Rの口から、お嬢さんに対する思いを私の鼓膜に打ち付けたのです。
私はただ「そうか」と言いました。言いたくても言えなかったのです。
 Rは、言いにくかったことを打ち明けたせいか、少し唇が震えていました。
私の心は、Rの唇以上に震えていたのは言うまでもありません。

それから、私もRに自分の気持ちを打ち明けようとなんども試みました。しかし出来ませんでした。
ここで打ち明けていたら、今こんな手紙を書く必要はなかったと思います。
 私はどうしてもやりきれない気持ちになって、最後の手段にで出る決心をしました。
Rがいようと誰がいようと、お嬢さんを好きな気持ちは変わりません。最後の手段に出る決心を固めたのです。
 それには、お嬢さんとRが邪魔でした。奥さんと二人きりになる時間がほしかったのです。
Rがいないと思うと、お嬢さんがいる。お嬢さんがいないと思うとRがいる…というように、
二人いっぺんにいなくなる時間はなかなかありませんでした。
 とうとう私は、仮病を使うことにしました。頭痛がするといって学校を休むことにしたのです。
お嬢さんもRも「大丈夫?」と心配しながら学校に行きました。
 これで、邪魔な者はいなくなりました。
 あとは私次第です。すると、「加減はどうか?」と言いながら、ちょうどいい具合に
奥さんが部屋に入ってきたのです。
「だいぶよくなりました」
 もとから仮病なのですから、加減もどうもありません。奥さんは
「そう、それは良かったこと。今日は一日お休みなさい」
と言い出て行こうとしました。
 ―――チャンスは今しかない! 咄嗟にそう判断しました。
「奥さん! 待ってください!」
 部屋から出ようとする奥さんはこちらを振り返りました。私は布団から起きあがり正座をしました。
そんな私に気づいたのか、奥さんも私と向き合って話を聞こうとしてくれました。
「なんです?」
 抑揚のない声が私の耳に響きました。本当に病気になるのではないかと思うくらい、私は緊張しました。
手のひらが汗でグッショリだったのを覚えています。
 私は突然。
「奥さん。お嬢さんを私にください」
 奥さんは、私の予想したより驚きの表情は見せませんでした。それでも驚いたのか、
しばしじっと私の顔を見つめ、なかなか喋り出しませんでした。
「ください。私の妻としてお嬢さんをください」
 奥さんはやっと口を開きました。
「あげてもいいですが、急じゃありませんか?」
「急に欲しくなったのです。ください。ください。是非ください」
 そうして、
「よく考えたのですか?」
 と強く念を押されました。言い出したのは突然だったけれど、考えていたのは突然ではないと
奥さんに強く主張しました。
 それから、いくつか聞かれたのですが、気持ちも動揺していたため、何を聞かれたのかはっきり覚えていません。
「よござんす。あげましょう。ご存知の通り、あの子は父親のない不憫な子です。あげるなんて
さしでがましい。どうぞ貰ってやって下さい」
 今後どうするか、奥さんが話をすすめました。話を進めるのもよいけれど、まだお嬢さん本人の気持ちを
確かめていないのだから、本人の気持ちを確かめることが先決だと言いました。
奥さんはその必要はないと言います。
『大丈夫です。本人が不承知のところへ私がやるはずありませんから』
 と私に、にこやかに言ったのです。

 夕方になると、何も知らないお嬢さんとRが帰宅しました。私の気持ちは、奥さんがお嬢さんに
直接話してくれるというのです。私もそのほうが助かりました。
 夕食には、お嬢さんは姿を現しませんでした。部屋に引きこもっていたのです。
Rは「お嬢さんは?」と不思議そうな顔で聞きました。
「おおかた、間が悪くなったのでしょう。放っておいた方がいいのよ」
 そう、意味ありげな笑いを浮かべ、私のことをチラッと見ました。
 Rは不信な顔をしていました。
 お嬢さんのことはともかく、私はどうRに打ち明けたらよいか迷いました。
祝言を挙げるとなっては、Rに言わないわけにはいきません。Rはどんな反応をするのだろう?
そればかりが気になって、私は言えずに2,3日を過ごしました。
 5,6日たって、奥さんはRにあのことを話したのかと、突然聞いたのです。
まだ話していないと答えたら、
「てっきり話しているものばかりだと思って、その話をしたら、変な顔をしていましたよ。
いつもあんなに親しくしているんですもの。いくら照れくさい事だからと言って、
黙って知らん顔とはあんまりですよ」
 私はそのときRは何か言わなかったかと、食い入るように質問しました。
「別に…ただ、おめでとうございますって。お祝いをあげたいけどお金がないからあげられません。
私にあるのは薔薇の花だけですからと冗談半分に言っていただけよ」
「そうですか…」
 奥さんがあのことを話してから数日が経った。
とうとう私は、Rに何も言えなかった。Rはどう思っているのだろう? Rの気持ちを知っていながら、
私はRを出し抜いたのだ。自分はお嬢さんに対する気持ちもRに打ち明けずに…。
 私は策略で勝っただけで、Rには負けたのだ。人間として負けたのだ。そう思えました。
正々堂々と立ち向かうなんて言葉は、このときの私の辞書にはありませんでした。
 Rの態度はいつもと変わりませんでした。薔薇の花を育てることにいつもより一生懸命になったことの他は、
何の変化もない。もちろん私にも何も言ってこない。私が言うのを待っているのだろうか…。
 これからどうしようか…。いまからでも遅くはない、打ち明けようか、謝ろうか…、布団の中で日々迷っていました。
トイレに行くと、Rの部屋にはまだ電気がついていました。電気に照らされて、Rの育てている薔薇が
照らされており、障子がほのかに赤く色づいていたのです。
 また明日考えようと…私は深い眠りに落ちました。
 次の朝、昨日遅くに寝たにも関わらず、早く目がさめました。やっと夜が明け、
明るい光りが廊下に射し込んでいました。
 Rの部屋の前を通ると、電気がついていた、さてはまた、夜中まで薔薇の手入れをしていて、
そのまま寝てしまったのだと思い、電気を消すために障子をあけました。
 真っ赤な色が目に飛びこんで来ました。赤は見なれている。Rの大事にしている真紅の薔薇の赤です。
でもその赤じゃない、Rは頚動脈を切って、薔薇の赤よりももっと赤い血を流し、死んでいたのでです。
 夜中、トイレに行ったとき障子に映っていた赤い色は薔薇の赤ではなくて、血の赤だったのです。
 私はその場に立ちすくみ、動く力も考える能力もまったくありませでした。
 暫くその場に立ちすくんでいると、机の上に二通の手紙があるのが分かりました。
言うまでもなく遺書です。1通は私宛て。もう1通は家族宛てでした。遺書には封はしてありませんでした。
私は急いで手紙を広げました。内容は完結でした。
『今まで世話になった。自分はバラだから生きていく資格はない』
と書いてあったのです。「バラ」は「バカ」の間違いだと思われます。
 私はてっきり、自分に対する出し抜きのことを遺書に書かれているのではないかと心配しました。
そのことがもし、お嬢さんや奥さんい知れたら…、私はこのときRのことよりも自分の世間体のほうが
大事だったのです。ですが、そのようなことは一つも書かれていなかったのです。
安心して、手紙をもとあった場所に戻しました。
 それから、警察を呼び、Rの遺体を処理しました。奥さんやお嬢さんを傷つけないように、
十二分な配慮を配りました。もとから、Rは変わり者だったので、遺書に残したとおりの言葉で
自殺したと誰もが疑いませんでした。
 Rの葬儀が済み、その年に私は学校を卒業しました。Rを裏切って、私は晴れてお嬢さんと
夫婦になったのです。もうお嬢さんではないので、これからは妻と呼びます。
 何も知らない妻は、「二人でRの墓参りに行こう」と言い出しました。
お分かりのとおり、それは私にとってどんなに苦しかったことでしょう。しかし妻は何も知りません。
「きっとRも喜ぶだろう」と妻は嬉しそうに言うのです。
 私は断る理由も見つからず、2人で墓参りに行きました。妻はRが薔薇の花が好きだったといって、
真紅の薔薇の花束をRの墓前に供えました。
 死んでしまった者はもう戻ってこない。何も言うことも、罵ることもできない。
私は妻を手に入れることによって、大切な友人も失ってしまったのです。失うどころか、私がRを殺したのです。
 私は卑怯です。Rに最後の最期まで、自分の気持ちを伝えることは出来ませんでした。
Rだけでなく、妻にも結局このことは言えませんでした。言うと妻が苦しむからです。
 私は妻を残して死にます。妻がこれから暮らしてい来る財産は十分にあります。生活に困ることはないでしょう。
妻には、私は頓死したと思わせておきます。もとから私は風変わりな所がありますから、
狂い死にしたと思わせたいのです。
 最期まで私は卑怯です。なんの関係もないあなたにこうして告白しているのですから…。
そして最期まで妻に知られたくない…、妻の過去はきれいな、純白のものにしておきたのです。
 どうぞ、妻が生きている限り、この手紙はあなたの腹の中にしまっておいてください。

                                         〜終わり〜

 

                                               参考文献:夏目漱石 こころ