赤髪の白雪姫2次小説
遠くの幸せ


もしもゼンと白雪が結婚しなかったら〜オビ白バージョン

1ページめ

1.結婚式
2.動揺 
3.遠くの幸せ 
4.白雪の涙 
5.ゼンの涙 
6.二人の涙
7.振り返らない


2ページ目はコチラ



1.結婚式

 うららかな春の日。
 柔らかな日差しが、薬室の窓にやさしく射しこんでいた。
 白雪は薬室の窓際でゆっくりと薬草を擦っていた。
 今日は日曜日なので薬室には白雪の他に誰もいなかった。
仕事が休みでもリュウがよく出勤しているのだが、今日は彼の姿もなかった。
 薬草を擦っていると、いつもより薬研が重く感じた。薬研の滑車は元から重い素材で出来ているので、
少々力のいる仕事であるが、今日は一段と滑車が重く感じる。それは多分、 気持ちのせいである。
 カーン、カーン。
 遠くから鐘の音が響いた。
 鐘の音の後には、わあああという歓声と大きな拍手が聞こえてきた。
 薬研の手を止めて白雪は窓の外を見た。
 雲一つない澄み渡った青空が目の前に広がっていた。
 今日の日を祝福するような縁起の良い青空だ。
晴れ晴れとした空とは対照的に白雪の心はどんよりと曇っていた。
 朝からずっと心の中にもやもやとしたものが渦巻いている。
「はぁ〜」
 白雪は薬研の滑車の手を止めて大きく溜息をついた。

 ――今日はゼンの結婚式だった。相手は自分ではない。
 ゼンの正妃として迎えられた隣国の王女様との結婚式だ。
 ゼンは自分を正妃として迎えたいと何度も訴えてくれたが、
イザナ陛下をはじめクラリネスの高官たちは首を縦に振ることはなかった。
 隣国の王女との結婚はもう決まったこと――。
 そう言われるばかりだった。王族同士の政略結婚に、本人の意志などまるで関係ないのだ。
『白雪の存在は否定しない。妃に迎えたければ第二の妃として迎えれば良い』と簡単に言われた。
 それでもゼンは、白雪を唯一の妃としたいと真剣に訴え続けたが、当人の意志は全く無視された。
 婚姻の準備は順調に進められ、今日の日を迎えることとなった。
 白雪は第二の妃というポジションに当初、かなりの戸惑いを感じたが、
そのまま受けることにした。第二の妃として、新しく部屋も与えられた。
 第二の妃の座を受け入れないということは、王宮にいることもできなくなるということだった。
 ゼンと別れて王宮を出て行く勇気はなかった。第二の妃ならば、今までと同じ生活ができた。
 薬室の仕事を続けてもいいとのことだった。
 だた一つ、ご正妃の存在さえ意識しなければ――。
 王女様との結婚が決まってから、ゼンはすごく白雪を大切にしてくれた。
 結婚式の準備もそこそこに、少しの暇でもあれば白雪に会いに来てくれた。
夜も毎晩のように部屋に通ってくれた。ゼンの気持ちは嬉しかったが、
このまま第二の妃としてやっていけるのか漠然とした不安はあった。
 新しく頂いた部屋はゼンの部屋に近いこともあって、
王族やゼンの正妃とも顔を合わせることが多い場所だった。
 はじめてゼンのご正妃の王女様に会った時には驚いた。
こちらはご正妃と分からなかったが、相手方はこの赤髪が目印になったのだろう。
 廊下で、突然話しかけられたのだ。簡単に自己紹介をされた後、
 『わたくしの役目は両国の信頼と友好です。
ゼン殿下の心の癒しはあなたにお任せします。どうぞよろしく』と笑顔で挨拶された。
 突然のことだったので返す言葉が見つからず、なんとか「よろしくお願いします」とだけ返した。
 ゼンより3つ年上の王女様。年上のせいか、落ち着きがあるように思えた。
 王女らしい気品を備え、わがままをいったり、突然癇癪をおこしたりしない穏やかな方だった。
 妾の立場である白雪を見ても笑顔で、髪一本乱さぬ振る舞いであったのだ。

 日が暮れたので薬室から自分の部屋に帰ってきた。
 与えられた部屋は日当たりも良く広々として心地の良い部屋だった。
 豪華なものはいらないと事前に言ってあったのに、家具や調度品は質のよいものが揃えられた。
 これもゼンの精一杯の気持ちなのだろう。
 夜も更けたが、ゼンが部屋に来ることはなかった。
 結婚式の後の披露宴が長引いているのだろう。王宮の中心部はまだ明るく騒がしかった。
 色々と挨拶もあるのかもしれない。今日は部屋には来ないと思っていいだろう。
 それに今日は初夜に当たる日だ……。
 白雪の脳裏にふと考えがよぎった。
 ――考えるのはやめよう。ゼンは毎晩のように部屋に通ってくれている。
毎日のように気持ちを伝えられて恥ずかしいくらいだった。
変な勘繰りを入れてゼンを困らせるようなことだけはしたくなかった。
 まだ眠くはなかったが、ベッドに入って掛け布団を頭から被った。

 寝返りを何度も打ちながら、白雪は長い夜を過ごした。

***

 結婚式が終わり、正妃を迎えてからもゼンは変わらず優しかった。
時間があれば会いに来てくれる。時々、通りすがりに正妃の取り巻きの女官から睨まれることはあるが
薬室の仕事も順調で今までと変わらない毎日が過ごせた。
 この調子だったら、第二の妃としてでもやっていけそうだ。
 そう思い始めたていた時だった。

 季節は春から初夏に移り変わった。
 もう窓を開けていても冷たい風を感じることはない。
 爽やかな初夏の風が王宮全体を包んでいた。薬草園から重たい薬草を一度に運ぶと、汗ばむくらいの季節になっていた。
 今日は久しぶりに、ゼン、白雪、オビ、ミツヒデ、木々の5人で昼食をとった。
 休みの日でも5人揃って昼食をとることは珍しくなってしまった。
 特にゼンは正妃との兼ね合いもあり、一緒に食事をすることは以前よりも激減した。
 また皆、忙しいので、仕事で一人二人欠けることが多く、5人での食事は本当に久しぶりのことだった。
 久しぶりの5人そろっての食事が嬉しいのは、みんな一緒の気持ちらしい。会話も弾んだ。
 会話が弾むと食事も美味しく感じた。昼食は白雪が作ったのだが、少し多すぎるかな? と思ったが、
みんなおいしそうにすべて食べてくれた。
 木々は食欲がないらしく、少し口をつけただけで食事は残して、お茶を飲みながら皆の話を笑顔で聞いていた。
 そろそろ食事の後片付けをしようかと思っていた、その時である。
 扉の外からバタバタという騒がしい足音が聞こえてきた。
 何事かと思い、皆、振り返る。
「ゼン殿下! ゼン殿下はいらっしゃいますか!?」
 勢いよく扉が開き、正装をした中年の男性が入ってきた。
 確か大臣だったような気がする。名前と何の大臣かまでは白雪は記憶していなかった。
「何事だ。今、食事中だ。仕事の話ならあとにしてくれ」
 ゼンは大臣のほうを一度チラリと見て、すぐに視線を戻した。
「こ、これが騒がすにいられますか!」
 大臣は廊下を走ってきたのだろう。
 はあはあと息を切らせながらも満面の笑みで話し続けようとしている。
「一体何なんだ!?」
 5人での久しぶりの食事を邪魔されてゼンは不機嫌極まりない表情であった。
「ご正妃様、ご懐妊でございます! ゼン殿下、おめでとうございます!」
 カシャーン。
 ゼンが右手に握っていたナイフが床に落ちた。
 大臣の満面の笑みとは裏腹に、5人の表情は固く凍った。


2.動揺

「正妃が妊娠!? そんなの嘘だ!」
 ゼンが椅子から立ち上がる。目を大きく見開き信じられないといった表情だ。
「嘘ではございません。医師の診察により、今、ご正妃様のご懐妊がわかったところでございます」
 大臣は満面の笑みで答える。
「そんなはずない! 正妃とは一回しか……、式の日の一回しかないぞ!」
 ゼンは大臣のほうに向かって強く言った。
「御子というのは一回でもできるときはでき、何度夜を重ねても、できぬときはできぬもの。そういうものです」
 白雪は大臣と一瞬だけ目が合いビクリとなった。
「そ、そんな……」
 ゼンの体から力が抜けたのか、腕がだらりと下がった。
 真っ青な顔をして視線が定まらない状態である。
 白雪、オビ、木々、ミツヒデの4人も食事の手を止めたまま声を発しない。
「ゼン殿下、ご正妃様のところへ参りましょう。明日からは王宮中、お祝いですよ。さあ、早く参りましょう!」
 大臣はゼンの腕を引っ張り廊下へ連れて行こうとした。
「いや、ちょっと待て。まだ頭の中が混乱して……」
 ゼンはその場に留まろうとしたが、強引に大臣に連れ去られてしまった。
 ゼンがいなくなった部屋に白雪、オビ、木々、ミツヒデの4人は残された。
 しばらく誰も言葉を発することなく、残った料理をただ見つめるだけだった。
「な、なんかゼン行っちゃったね……。私、食事の後片付けしますね」
 沈黙を破り白雪は立ち上がった。
目の前にあるお皿を次々に重ねてゆく。
「あ、俺も手伝いますよ」
 隣に座っていたオビが立ち上がる。食器を白雪と一緒にまとめようとしてくれていた。
「あ、じゃあ私も……」
「俺も手伝うよ」
 木々とミツヒデも手伝おうとしてくれた。
「木々嬢、具合悪いみたいですし、いいですよ。部屋に帰ってミツヒデの旦那とゆっくり休んでください」
「うん、そうしてください、木々さん。オビと二人で大丈夫です」
 白雪は木々とミツヒデになんとか笑顔を作った。
「じゃあ、お願いしようかな。またね、白雪」
「ああ、またな白雪、オビ……」
 木々とミツヒデは言葉に甘えたのかそのまま退出した。二人の挨拶したときの笑顔が完全に引きつっていた。

 白雪とオビは無言で後片付けをしていた。
 オビは白雪に気づかれないよう時々チラリと白雪の様子を伺う。
 俯き加減で洗い物をしているので、前髪に隠れてどんな表情かは確認できなかった。
 白雪の様子をこっそりうかがいながら、洗い終わった食器を拭いていた。
 ――大臣が持って来たご正妃の妊娠の話は本当の話なのだろうか? 
 つい最近、結婚式が終わったばかりだと思ったのに、こんなに早く? というのがオビの感想だった。
 本当に主の子なのだろうか? そんな考えもよぎったが、相手は王女様。
 宮廷の奥の奥で育てられた深層の姫君である。
 主以外の子を身籠ったなんて国際問題に発展しかねない。やはり主の子の可能性が高い。
 オビは無言で食器を拭きながら静かに考えていた。
 そしてお嬢さんはご正妃の妊娠についてどう思っているのだろう……。
「お嬢さん、大丈夫ですか?」
 オビは小さい声で聞いてみた。
 ガシャーン!
 白雪は手に持っていたコップをシンクの中に落とした。
 コップは見事に真っ二つに割れ、破片が飛び散った。
「いけない! コップ割っちゃった。片付けるね」
 白雪は一瞬オビの方へ顔を向けた。口元は笑っていたが、目が全然笑っていなかった。
 コップを片付ける手が小刻みに震えている。顔色も心なしか青かった。
「あっ、お嬢さん。素手で触ってはダメです。今、俺が片付けますから……」
 オビはごみ袋を持ってきて、手を切らないようガラスの破片を拾った。
 白雪も俯きながらオビを手伝う。
「おめでとうって、ゼンに言えなかったな……」
 白雪が突然、ポソリと呟いた。
「俺も言っていませんよ」
 白雪の顔を見ずオビは答えた。
 また二人の間に長い長い沈黙が訪れる。
 そのまま無言で二人は食器の後片付けを続けた。

***

 翌日から、ゼンのご正妃懐妊の吉報で王宮が祝福ムードに包まれた。
 正妃の懐妊は本当の話だった。
 ゼンはお祝いを述べに来た高官や貴族たちの対応で忙しそうだった。白雪と共に過ごす時間はなかった。
 王宮内のお祝いムードとは裏腹に、白雪は全く喜べなかった。
 ご正妃懐妊の報を聞いた直後は、何が何だかよく理解できなかった。
 心臓がドキドキとちぐはぐになっていて、息をするのも苦しかった。
 正式に認められた夫婦なのだから、正妃が妊娠するというのは当たり前のことなのに、
そんなことが起こるなんて想像もしなかったのである。今思えばなんて自分中心な考えだったのだろうと思う。
 妊娠したということは、そういう行為をゼンとご正妃はしていたということだった。それにもショックだった。
 愛されているのは自分だけだという奢りがあったのかもしれない。
 懐妊の知らせを聞いて、こんなにもショックを受けている自分に白雪は驚いた。
 赤ちゃんができることは喜ばしいことなのに、素直に純粋に喜べないこんな醜い心が自分の中にあるんなんて信じたくなかった。
 ゼンは自分だけを愛してくれていると思っていたし、毎日そう言ってくれた。
 裏切られたという言葉は間違っているだろう。元から白雪は第二の妃だ。
 それを承諾して王宮での暮らしを選んだのは白雪自身だ。大好きなゼンの側で暮らしていける。
 それだけで幸せだと思っていた自分がなんだか滑稽に思えてきた。
 こういうことが起こると予想もしていなかったのだ。
 懐妊の知らせを聞いた直後はショックで何も言葉がみつからなかったが、数日たつと少し落ち着いてきた。
 ゼンに赤ちゃんができたのは喜ばしいことなのだ。祝福しなければならなない。
 本当は喜べない醜い心の内をゼンに決して知られてはならない。
 次に会った時には笑顔で「おめでとう」と言おう。
 白雪はゆっくりと深呼吸をした。

 ご正妃懐妊の発表から1週間ほどたった夜、ゼンは久々に白雪の部屋に来た。
 硬い表情のゼンを白雪は笑顔で迎える。
「ゼン。ご正妃様のご懐妊、おめでとうございます」
 白雪は丁寧に頭を下げた。
 ――上手く笑えていただろうか? 
 不安だったが、ゼンと会えない間、何度もおめでとうお祝いを言う練習をこっそりしてきた。
 きっとうまく笑えていたはずだ。頭を下げたまま白雪はそう信じた。
「……本気で言っているのか?」
 ゼンの小さな低い声に白雪は顔を上げる。眉間に皺を寄せ難しい表情をしたゼンがこちらを見つめていた。
「も、もちろん本気だよ。赤ちゃんができることはおめでたいことだもの……」
 白雪は無理やりに笑顔を作る。ゼンが歩み寄ったかと思うと、腕を強くつかまれた。
 目前にゼンの必死な顔が迫る。
「ごめん、白雪! 初夜に一度だけなんだ……正妃が初夜もないなんて辛いと言われて……
まさか一度で懐妊するなんて……本当にごめん!」
 ゼンは白雪の腕を持ったまま強く目を瞑り、頭を下げる。
 一度だけ――という言葉に白雪の心臓は強く脈打った。
「あ、謝ることじゃないよ。ご正妃様とは夫婦なんだし、当然と言えば当然……」
 言い終わらないうちに腕を引き寄せられ肩を抱かれる。
 ゼンと鼻が触れあいそうなくらい近い距離になる。
「愛しているのは白雪だ。白雪との子が欲しい……」
 ゼンの鼻が触れた次の瞬間には熱く口づけられていた。
 しっかりと目を瞑ったゼンの顔が目の前に迫る。苦しいほどの熱い口づけに白雪は目を閉じる。
 同時に頬に一筋の涙が伝わった。
「ゼン……」
 腕の中で名前を呼ぶと更に強く抱きしめてくれた。
 ゼンから愛しているという言葉を聞いて今まで緊張で張り詰めていた糸がほどけた。
 彼の腕の温もりが恋しかった。この腕の中に包まれたかった。
 そして自分との子が欲しいと言ってくれたゼンの気持ちが嬉しかった。
 そのまま寝台に連れて行かれる――ゼンと深く愛し合った。


3.遠くの幸せ

 ご正妃が懐妊してからも、ゼンは変わらず優しかった。
 廊下で会えば優しい笑顔を向けてくれるし、毎晩のように白雪の部屋にも通ってくれた。
 ゼンの腕に抱かれる度に愛されていると感じ、満たされる思いだった。
 ゼンと会っている間は幸せを感じたが、ご正妃の懐妊は日々、白雪の心をざわつかせる。
 ある夜――。
 いつものように部屋へ来たゼンに、『今日は月のものである』ということを静かに伝えると、きょとんとした表情をされた。
 いつもと様子が違った。何か意表を突かれたような、思いもかけないことに遭遇したという呆然とした表情だ。
 だいぶ長い沈黙の後、ゼンは「そうか……」と残念そうに溜息をついた。
 その言葉に白雪はショックを受けた。ナイフでグサリと刺されたような衝撃に心が凍った。
 あんなにゼンは愛してくれたのに、毎月、きっかりと生理はやってきた。子はできなかった。
 結婚してすぐに妊娠する人もいるし、何年も時間を要する人もいる。
望んだからといってすぐにできるものではない。そう頭では分かっていた。
 焦っても仕方のないことなのだ。気にしないでいつもと同じく、毎日を過ごした方がいい。
 むしろ焦ってしまう気持ちのほうが精神的に良くないのだ。長い目で考えるのだ。白雪はそう心に言い聞かしていた。
 そんな時だった――。
 木々から妊娠したという報告を受けた。
 木々とミツヒデと1年前に結婚していた。そろそろ子ができてもおかしくない時期だ。
 生まれるのはゼンのご正妃の子と同じくらいの時期だという。
 白雪の心はざわついた。
 なんとか笑顔で木々に「おめでとう」と言うことができたが、
木々から返ってきた言葉は「ごめん」だった。その言葉に更にショックを受ける。
 陽気にその場をとりつくろったが、上手く笑えていたかどうかは不安だった。
 薬室でいつものように仕事をしていても、今まで気にもかけなかった薬草が気になるようになった。
 身体を温めたり、子宝に恵まれる薬草が気にかかるようになった。
 今まで何度か、なかなか子に恵まれない女性に薬草を処方したことがあった。
あの女性たちはこんな気持ちで薬草を処方されていたのかと思うと、なんだか息の詰まる思いだ。
 数か月たったが、運は白雪に味方はしてくれなかった。
 毎月のようにきっかりと生理はやってきた。今までは当たり前のことなのにその都度がっくりと落ち込む自分がいた。
 今の状況になるまで、子供が欲しいなんて考えたことがなかった。
 まだちょっと先の事で、きっといつかは……くらいにしか思っていなかった。
 ゼンがご正妃を迎え、自分は第二の妃の座に収まる。
その話が出たとき、まさかゼンのご正妃が先に妊娠するなど、微塵も考えていなかった。
 こういう状況になると、自分もゼンの子が欲しいと思うようになった。
ゼンも自分との子供が欲しいと言ってくれた。その気持ちは涙が出るほど嬉しかった。
 でも――。
 この先もしゼンの子を授かることができたとしても、それですべての不安が解消されるというわけではない。
 例え今、ゼンの子を授かったとしても、既に懐妊している王女様と対等に並べるわけがないのだ。
 所詮、何の身分も後ろ盾も持たない第二の妃、妾である。
 むしろ生まれた子供が危ない目に合うのではないかという不安すらある。
 このままでも生活の保障はされている。
 何の身分も持たない街娘が王子の寵愛を受けて妃の座に収まるなんて、
そうそうある幸運ではないと、他の同僚たちに言われることもあった。
きっとこのポジションで逞しく生きていく女性もいるのだろう。
 ご正妃やその取り巻きの女官たちに遠慮せず、もう少し図々しくなってもいいのかもしれない。
もっとゼンにわがままを言ってもいいのかもしれない。
 でも、そんな生き方は、自分には向いていないのかもしれない――。
 仕事中でも休みの時でも絶えず考えるようになったってしまった。
 最近、食事もあまりおいしいと感じなくなった。夜もぐっすりと眠れず何度も目を覚ましてしまう日々が続く。
 心にはもやもやとしたものがずっとあるのだ。
 白雪は自室の窓から空を見上げる。
 雲一つない快晴だった。
 この青空のように心が晴れる日がやってくるであろうか? 
 この先の未来は明るいのだろうか? 本当に自分は今、幸運なのだろうか? 
 そう疑問に思い始めた白雪であった。

***
 
 季節は夏から秋に移り変わる。
 太陽の出ている昼間はまだまだ汗ばむ陽気だったが、朝晩はグッと冷えるようになった。
 気温の差が大きいためか、王宮内でも体調を崩す人が多く、薬を求めに来る人が多かった。
 薬室の入口の隣の部屋で薬草を擦っていると、誰か来た気配がした。
 薬をもらいに来た患者だと思い、手を止めて入口に顔を出した。
「どうかしましたか? あ……」
「すみません。頭痛がするので薬を……あっ!」
 見覚えのある若い女性が立っていた。質の良さそうな青いロングドレスを身に付けており、
長い髪を綺麗に結い上げている女性だ。この顔には見覚えがある。ご正妃の取り巻きの女官の一人であった。
 お互い顔を認識し、視線を泳がせた。
「あ……頭痛の薬ですね。今、用意しますね」
 なんとなく気まずい気持ちはあったが、仕事なのでいつもと同じように薬を用意しようとした。
その時だった。
「嫌だわ……」
 女官の声に振り返ると、白雪を険しい表情で睨みつけていた。
「は?」
「あなたが用意する薬なんて飲めないわ。他の人に代わって!」
 甲高い声で女官が叫んだ。その声に白雪はビクリとなる。
「え? でも頭痛用の鎮痛剤は誰が用意しても同じで……」
「嫌って言ってるでしょ! あなたが触った薬なんて嫌! 早く他の薬剤師呼んできてよ! うっ、あいたたたた……」
 女官はこめかみを押さえ苦しそうにする。頭痛がするのにこんなに怒っては痛みも増すことだろう。
 白雪は「わかりました」と小さく返事をして、奥の部屋に下がった。事情を話してリュウに対応をしてもらった。

『赤髪の薬剤師は毒を盛る』

 そんな噂が王宮に流れた。
 もちろんそんなことするわけないし、毒を盛られた人なんて一人もいない。
 大方、正妃お付きの女官たちが流した、根も葉もない噂だろう。 
 だが、その噂は白雪を苦しめることになる。
 赤髪の薬剤師、白雪の調合した薬は飲みたくないという者が出始めたのだ。
薬室のみんなは「気にすることない」と気を遣ってくれたが、
念のため噂が収まるまで、表向きの対応は避けるようにと言われた。
 白雪は薬室の奥の部屋で誰にも見られないよう仕事をするようになった。
 第二の妃。
 その立場のせいで、仕事にまで支障が出てしまうなんて、薬室のみんなに申し訳なかった。
 薬室の奥で隠れるようにして仕事をしているのもしばらくは仕方ないと思ったが、この状態がずっと続くと思うと気が滅入ってきた。
 相変わらず妊娠する気配はまったくないし、仕事も上手くいかなくなってゆく――どんどん白雪の心は追い詰められていった。

***

 秋晴れの気持ちの良い午後。
 白雪は一人で城下に薬草の買い出しに来ていた。
 オビに一緒に行くと言われたが、購入する薬草は少量だったし、
なんとなく一人になりたい気分だったのでオビの供はそれとなく断った。
 購入するのは少し珍しい薬草だったので、1件目の薬屋さんには置いていなくて、
城下の外れの薬屋まで行くことになってしまった。もっと早く王宮へ戻る予定だったが、夕暮れになってしまった。
暗くなる前には王宮へ着くと思うが、遠くの山には沈みかかった太陽が赤く染まり、
茜色の夕焼けが城下を照らしていた。白雪の目の前に美しい夕焼けが広がる。
 王宮に向かって歩いて行くと、3人の親子連れとすれ違った。
 3歳くらいの子供がお父さんに肩車をされていた。その横にお腹の大きいお母さんが笑顔で会話をしている。
 お母さんは大きなお腹をゆっくりと愛おしそうにさすりながら白雪の横を通り過ぎた。
 白雪は薬草の袋を抱えたまま歩みを止める。思わず振り返ってしまった。
 親子からは楽しそうな笑い声が聞こえた。3人の親子の姿が徐々に小さくなり茜色の街に消えていった。
 その光景がどうにも切なくて白雪の頬に一筋の涙が伝わった。
 幸せそうな親子の姿。
 自分には手にできない遠い遠い幸せのような気がして涙がもう一つ零れた。
 こんな何でもない光景、今まで何度も見てきたはずだ。だけれども、こんな日常的な光景が、
自分には手にすることのできない遠くの幸せのような気がした。
 不安と切なさに次々と涙が零れて行く。
 このままでいいのだろうか?
 ゼンのすぐそばの……この王宮が私の居場所なのだろうか? 
 この先、王宮の暮らしに幸せを感じることができるのだろうか?
 大好きなゼンは側にいてくれる。でも胸の中はいつも不安でやりきれない気持ちでいっぱいだ。
 他の人の幸せも素直に喜べない自分にも嫌気がする。
 どうしたらいいのだろう?
 どうやって気持ちをしっかり持って生きてゆけばいいのだろう?
 白雪は涙を流しながら、遠くに見える茜色の空を見つめた。



4.白雪の涙

「話って何? 最近、白雪元気ないよね。今日は時間があるからゆっくり聞くよ」
 木々は白雪の部屋にいた。
 これからどうやって王宮で過ごしたらいいのか――誰かに相談したかった。
 薬室の仕事仲間に話を聞いてもらおうかと思ったが、『毒を盛る噂』で充分に迷惑をかけている。これ以上薬室に負担はかけたくなかった。
 オビに聞いてもらおうかとも考えたが、やはり同じ女性の木々に話を聞いてもらいたかった。
 今日は忙しい木々に時間を作って部屋に来てもらったのである。
 妊娠中の木々は、お腹の膨らみがだいぶわかるようになってきた。
 負担をかけてはいけないと思い、ソファに腰かけるよう勧めた。
 白雪は立ったまま話そうと思ったが、木々に座るよう促されたので、隣に腰かけた。
「どうしたの? 白雪。今日は特に元気ないように見えるけど……具合悪いの?」
 木々が白雪の顔を覗き込む。
 まるで女神様のような美しくて優しい笑顔だ。その笑顔だけでも心がふっと緩む。
 滲み出る優しさにもうお母さんの顔なんだなとも思った。
 いざ木々を目の前にすると、何から話し始めればいいのか分からなかった。白雪はただ黙っていた。
「どうしたの?」
 木々が白雪の肩に手を置き、顔を少し覗きこむ。
 その手の優しさと温かいぬくもりに涙が滲んだ。今まで心の奥底で我慢していた何かが、パンと弾けたような音が心の中でした。
 白雪の頬にスッと一筋の涙が伝わる。
「うっ……ううっ……」
 白雪はしゃくりあげポロポロと大粒の涙を流す。
「ど、どうしたの白雪!?」
 泣き出した白雪に木々が慌てる。
 何度か「どうしたの? 何があったの?」と問いかけられたが、
今まで我慢してきた気持ちが涙として一気に溢れ出し、話すことは不可能だった。
 木々の優しさに涙が止まらなくなったのだ。何度もしゃくりあげ白雪は泣き続ける。
 木々は突然泣き出した白雪に最初は動揺していたが、しばらくすると白雪の背中に手を添えてくれた。
 白雪の背中をポンポンと優しく撫でてくれた。
「白雪、落ち着いたらでいいから話して……」
 木々の優しい言葉に白雪は泣きながら頷いた。
 心を落ち着けようと白雪は何度か深呼吸した。涙はまだ止まらなかったが、呼吸は落ち着いてきた。
 白雪はポツリポツリと今ある自分の心境を木々に話し始めた。
 ご正妃の懐妊を心から喜べないこと。自分もゼンの子供が欲しかったが上手くいかないこと。
 毒を盛る噂のせいで薬室にも迷惑をかけ、仕事にも支障をきたしていること。
 この先、王宮での暮らしが不安で先が見えないということを木々に打ち明けた。
 木々は真剣に話を聞いてくれた。
 白雪が話し終わったところで静かに口を開いた。
「今ある白雪の立場は、女性なら誰でも辛く感じると思う。
きっと私だって白雪と同じ立場だったら悩んでた……ううん、もっと取り乱しているかもしれない」
「木々さん……」
 顔を上げると、木々は真剣な表情をしていた。本気で話を聞いてくれているのだ。
「私たちとしては、白雪にずっとゼンの側にいて欲しいと思ってる。ゼンも白雪を必要としている。
だけれども、ゼンは白雪だけのものじゃないのも確かだ。その状況が白雪には辛いかもしれないね……」
「はい……」
 白雪は涙声で頷いた。
「白雪にはずっと王宮にいてほしいと思う。
けれど第二の妃いう立場は本当に難しいものなのかもしれないね……」
 木々は目を伏せて小さく溜息をついた。
「私、第二の妃ってどういうものか分かっていなかったんです。
たぶんきっと、心の奥底では普通の幸せを望んでいたんです。
第二の妃なんて立場でそんな幸せ望めるはずないのに……。私の覚悟が足りなかったんです」
「そんな覚悟できる人なんていないよ」
 涙を拭いながら話す白雪の肩に、木々は優しく手を添える。
「なんだかこのままの状態で、ここで……王宮で年を重ねていくのが怖くっなっちゃって……」
 白雪はまた涙を流し始める。
涙を流し続ける白雪を見て、木々は何かを感じた。
「もしかして……白雪の中でもう答えは出てるんじゃないの?」
「え?」
 白雪は木々の顔を見る。木々は辛そうな表情で話し始める。
「白雪が王宮にいて欲しいのはもちろんだけど……これは白雪の人生だ。
第二の妃としてずっといて欲しいなんて言えない。
白雪と離れるのは本当に辛いけど、けじめをつけるなら、早い方がいいと思う……」
「木々さん……」
 木々が白雪を見つめ、真剣な表情でゆっくりと頷いた。
「白雪のこれからのこと。ゼンを含めてみんなでじっくり考えよう。
今日は相談してくれてありがとう。これからは一人で悩まないでいつでも相談してね」
 木々は優しく白雪の肩に手を添える。
「はい。忙しいのに話を聞いてくれてありがとうございます」
 白雪は丁寧に礼を言った。
木々と別れて白雪は部屋に一人になる。
 今まで悶々と考えていたことを吐き出せて少し気分がすっきりしたような気がした。
 木々の言うとおり、自分の中でもう答えは出ているのかもしれない。
 王宮は自分の望む居場所ではないのだ。
 ご正妃のお腹も日に日に大きくなってゆく。順調な経過を、王宮の誰もが喜んでいた。
 クラリネス王国とご正妃の母国の絆となる子である。王宮中祝福に満ちていた。
 白雪のような何の後ろ盾も持たない第二の妃が入り込む隙間など全くないと言っていい。
 数日前、王宮の渡り廊下で、ご正妃の大きなお腹を恐る恐る触っているゼンの姿を見た。
 その光景に思わず白雪は身を隠してしまった。
 声までは聞こえないが、幸せそうに二人は何か話しているようだった。
 ゼンにとっても初めての子だ。嬉しいに決まっている。
 王子という身分上、子供が出来たことは本当に喜ばしいことなのだ。
 もしかしたら、自分の存在のせいでゼンは心から喜びを表せないのかもしれない。
 ゼンの幸せを邪魔しているのは自分自身なのかもしれない。
 木々が察している通り、もう自分の中で答えは出ていのかもしれない……。
 そう気づきはじめた白雪であった。


5.ゼンの涙

 木々、ミツヒデ経由で白雪が悩んでいることを聞いた。
 第二の妃という立場に相当困惑しているようだ。
 正妃が懐妊してから、いやもっと前から白雪が悩んでいたことはわかっていた。
 特に正妃が懐妊してからの白雪の元気のない様子には本当に心が痛んだ。
 会うといつも笑顔を向けてくれたが、心から笑っていないことはわかっていた。
 だが、白雪に悩みをストレートに聞くわけにもいかず、なんとなく毎日を過ごしてしまった。
 すべて自分が原因である。
 白雪をこんなに傷つけるのなら、正妃と初夜など過ごさなければ良かったと思ったが、
それは正妃に対しても生まれてくる子に対してもあまりに酷く無責任な考えである。
 今日は仕事を早く切り上げて、ミツヒデと王宮の裏庭に来ていた。滅多に人が通らない場所であった。
 ミツヒデと並んで草の上に直接座る。秋も深まり、直接地面に座るとお尻がヒヤリとした。
 草を通して冷たい土の感触が伝わった。季節は確実に冬に向かって進んでいるのである。
 白雪が木々に胸の内を話したらしい。
 かなり泣いていたようで話を聞きだすのも苦労したということだ。
 やはり正妃の懐妊が白雪の心に大きくのしかかっているらしい。
 白雪に子ができないことも気にしているようだ。
 これから王宮でどう過ごしていけばいいか、このまま居続けていいのか悩んでいるということだった。
 兄や貴族の高官たちは頑として白雪を正妃としては認めてくれなかった。
 隣の国の王女を正妃として迎えれば、白雪をもう一人の妃として迎えても構わないと案を出され、
言われるがままに白雪を第二の妃としてしまった。白雪と別れるなんて考えられなかった。
 白雪と王宮で一緒に暮らすには、彼女を第二の妃とするしかなかったのだ。
 まさかこんなことになるのなら、もっともっと強く反対しておけばよかったと後悔した。
 ――考えが甘かったのだ。
 子ができるしろできないにしろ、第二の妃という立場で白雪を幸せにすることできないのである。
「そうか、白雪は泣いていたか……」
「ああ……」
 ミツヒデは気まずそうに頷いた。
 ゼンに何と声をかけたらよいか、ミツヒデにはわからなかった。
 白雪の心の内とゼンの気持ち。
 今ある状況の解決方法なんて、ミツヒデの頭にはまったく浮かばなかった。
 長年ゼンと一緒にいるが、今回ばかりは気の利いた言葉も思いつかなかった。
「こんなにも白雪のことが好きなのに……
互いに想い合っていると信じられるのに、俺は白雪を幸せにはできないんだな……」
 ゼンは大きなため息をつき、しゃがんだまま自分の足の間に顔を伏せた。
「ゼン……」
 ミツヒデは隣に座っているゼンのほうを見た。
顔を伏せているゼンの肩が小刻みに震える。その震えが次第に大きくなり、嗚咽と共にゼンが泣き始めた。
「うっ……ううっ!」
 ゼンがこんなふうに泣くのを見るのは、アトリのあの一件以来だった。
 あの時と同じように、ミツヒデはゼンの背中に手を添えようち手を伸ばしたところで手を止めた。
 ゼンの背中に触れられなかった。
 木々の顔がふと浮かんだ。
 少々の反対はあったが、一番好きな人と結婚することができて、子にも恵まれた。
 ミツヒデはゼンが手にできなかった幸せを手に入れているのだ。
 王子という何でも手にできる身分なのに、ゼンは今、一番大事なもの失おうとしている。
「うっ……ううっ……」
 顔を伏せたままゼンは嗚咽を漏らして泣き続けている。
 ミツヒデはゼンの背中の前でぐっと拳を握った。
 ゼンに触れることはできなかった。
 クラリネスの王子という、背負っているものが大きすぎる。
 ゼンの真面目な性格からして、白雪のために国も身分も何もかも投げ出すことなんてきっと出来ないだろう。
 やっと心から想いあえる相手が見つかったというのに、共にいることはできないのだ。
 本当に言葉が見つからなかった。
 ミツヒデは拳を握ったまま、泣いているゼンの隣にただ座っているしかできなかった。


6.二人の涙

 白雪は大事な話があるからと言って、自分の部屋にゼンを呼んだ。
 木々に泣きながら相談してから、みんなに色々気にかけてもらった。ミツヒデやオビも心配してくれた。
 部屋に現れたゼンの表情は固かった。
 木々やミツヒデから話を聞いているのだろう。
 いつも白雪の部屋に来ると、嬉しそうにニコニコしていたが、今日のゼンに笑顔はなかった。
 色々考えたが、第二の妃と言う立場は、自分には向いていないということがわかった。
 王宮でこのまま歳を重ねていくのが怖かった。
 赤髪の薬剤師が毒を盛るという噂も消える様子はなかった。このままでは薬室にも迷惑がかかる。
 テーブルに向かい合わせでゼンと座った。
 呼び出したのは自分なのだから、こちらから話しを始めなければならないのに話せなかった。
 これからゼンに告げるのは別れの言葉だ。
 その言葉を口にするのはとても怖かったし、それは同時に大きく彼を傷つけることにもなる。
 第二の妃としてこんなにも大切にされているのに、大好きな人を裏切るのだ。
 まだゼンのことが好きなのに、これから別れの言葉を告げなければならない。
 本当はずっとずっと一緒にいたかった。同じ時間を一緒に過ごしたかった。
 白雪は目を瞑り、涙が出ないように拳を握ってぐっと堪える。
 二人の間に長い長い沈黙が流れた。
 微かに白雪が息を吸ったかと思うと、かすれた声で名前を呼んだ。
「……ゼン」
「なんだ?」
 名前を呼ぶと硬い表情だったゼンの頬が微かに緩んだ。優しい笑顔になったのだ。
 愛する人から向けられた笑顔にふっと心が緩んだ。でも言わなければならない。
「ゼンの……第二の妃やめさせてくだ…さ……い」
 まっすぐにゼンを見つめてやっとの思いで言った。
 言い終わった時には、堪えていたはずの涙が頬に一筋伝わってしまった。
 彼の笑顔を見ていたら自然と涙が零れてしまったのだ。
 ゼンは何も言わない。まっすぐに白雪を見つめていた。
 白雪は涙を拭い、次にテーブルに額がついてしまうくらい深く頭を下げた。
「ゼンが私を妃に迎えてくれたことは本当に嬉しかった。だけど覚悟が足りなかった……。
ゼンはこんなに良くしてくれたのに、私の心が弱くて本当にすみません」
 頭を下げたまま一気に言った。一気に言わなくては涙で言い逃しそうになるかもしれないと思ったからだ。
「木々とミツヒデから聞いた。白雪に本当に辛い思いをさせて悪かった……」
 ゼンの声に白雪が顔を上げると、今度はゼンがテーブルに額がくっつきそうなくらい頭を下げていた。
「そんなっ……ゼン謝らないで……頭をあげてっ!」
 白雪はテーブルに身体を乗り出し、慌ててゼンの肩を叩く。顔を上げたゼンは目が赤かった。
眉間に皺を寄せ、本当に申し訳なさそうな表情をしていた。
「白雪を連れて王宮を逃げ出そうかと思ったが……やっぱりそれはできないんだ。ごめん」
 ゼンがギュッと目を瞑り、頭を再び下げる。
「王宮から逃げ出すなんて……そんなことして欲しいと思ってない。ゼンらしくないよ」
 そんな駆け落ちのようなことして欲しくなかった。生まれてくる子供を残してそんなことできるわけないし、してほしくない。
「妃をやめるってことは……王宮から去るって事か?」
「……はい。私のせいで薬室にも迷惑が掛かっているし、仕事もやめようと思っています」
 白雪は静かに言った。
「そうか……。白雪と一緒にいたいだけなのに、その夢は敵わないんだな」
 ゼンが天井を見上げて鼻をすする。
「ごめんなさい。私の覚悟が足りなかったせいで……」
「いいや、それは俺も同じだ。正妃を迎えるということをよくわかっていなかった。
様々な事態を予想していなかったんだ。白雪は何も悪くない。悪いのは俺だ」
「ゼンは何も悪くないよ……」
 白雪は泣きながら首を横に振る。赤い髪がふわりと揺れた。
 泣かないようにと思っていても次から次へと涙は流れてきた。
 二人の間に再び沈黙が訪れた。白雪の鼻をすする音だけが時々聞こえてきた。
「白雪が……いなくなるのは寂しいな……」
 ゼンがポツリと呟いた。ゼンは天井を見つめていた。
 顔を見ると、頬から一筋の涙が伝わっていた。
「そんなことないよ。ゼンにはミツヒデさんも木々さんもオビもいるじゃない。
もうすぐ子供だって生まれる。きっとかわいいよ。ご正妃様だっているし、ゼンは寂しくない」
 白雪は思いっきりゼンに向かって笑いかける。
 自分がいなくとも、ゼンにはたくさんの頼れる人々がいる。きっと寂しくないはずだ。
「その中に白雪はいないじゃないか。だから寂しい」
「寂しくないよ。みんないるじゃない……」
 白雪はもう一度ニコリとゼンに笑いかけたつもりだった。
「じゃあどうしてそんなに白雪は泣いてるんだ?」
「えっ? 私、泣いてなんか……」
 白雪は頬の涙を拭う。顔は必死に笑おうとしているが涙が次々に溢れ出ていたのだ。
 向かいに座っていたゼンが立ち上がる。
 すぐ隣まできたゼンは白雪の赤い頭をしっかりと腕の中に収めた。
「誰が側にいても白雪がいないと寂しいんだ。白雪は……俺がいなくて寂しくないのか?」
 背中に手が回りしっかりと抱きしめられる。その温かさと腕の力強さに心が震えた。
 本当の気持ちを言ってはいけない。やっとの思いで決心したのだ。
 白雪が無言のままでいると、更に強く抱きしめられた。
 しっかりと抱きしめられた腕から、ゼンの想いが伝わってきた。ゼンの想いに思わず本心がこぼれる。
「寂しい……ゼンと別れるのは寂しいよ……」
「白雪っ!」
 名前を呼ばれた次の瞬間には彼の熱い唇が重なっていた。
 お互いに強く強く抱きしめあった。
 今だけは……今だけはお互いのぬくもりを感じていたい。

 二人は最後の夜を過ごすこととなった――。



7.振り返らない

 穏やかに晴れた日の午後、オビはゼンの執務室に呼ばれていた。
 短い秋が過ぎ、執務室の窓の外には冬の訪れが感じられていた。
 赤や黄色に色づいた樹々は葉を落とし、地面に明るい色のカーペットを作っていた。
 窓の外は冬晴れで、雲一つない清々しい青空が広がっていた。
 そんな清々しい青空とは対照的に、ゼンたちの表情は険しかった。
 眉間に深い皺を刻んでゼンは執務机に座っていた。両脇に控える木々とミツヒデも暗い顔をしている。
「主、話って何ですか?」
 全く冗談を言えるような雰囲気ではなかったので、オビは真顔で聞いた。
「……白雪が王宮から出て行くことになった」
 少々の沈黙の後、ゼンが低い声で言った。すぐそばで控えている木々とミツヒデも視線を床に落としている。
 ――お嬢さんが第二の妃として王宮に居続けるかどうか悩んでいることは知っていた。
 主と二人で話し合いをしたことも聞いていたが、そういう結論に至ったわけだ。冗談ではないことは、場の空気を読めばわかった。
 オビはゼンの次の言葉を待った。
 こうして呼び出されたということは、何か任務があるということだ。
 ゼンは机の上で祈るように手を組んでいた。両手で指をしっかりと組み、まるで協会で祈りを捧げるようだった。
「オビに頼みたいことがある。王宮から出て行く白雪と、しばらく行動を共にして欲しい」
 ゼンは眉間に皺を寄せたままオビを見つめる。険しい表情であったが、その瞳は寂しそうで辛そうであった。
 オビは何も言わず、ゼンをまっすぐに見つめた。
 ――主とお嬢さんには幸せになって欲しかった。
 二人ともお互いを必要とし想いあっていることがわかった。ずっと一緒にいて欲しかった。
 だから自分の中にあるお嬢さんを好きな気持ちを今まで封印してきたのだ。
 主の王子としての立場と状況とはわかる。二人で悩んで出した結論だということもわかっていた。
 だけれども、お嬢さんのことを好きだから、主と幸せになって欲しかった。ずっとずっと笑っていて欲しかった。
 心の奥底にそんな悔しい思いがあったのだろう。
 主を傷つけるかもしれない言葉を無意識に言ってしまった。
「いいんですか? 俺、お嬢さんのことまだ好きですよ?」
 机の上に乗せているゼンの手がピクリと動いた。
 表情は変わらない、険しいままだった。眉間の皺が少しだけ深くなったようにも思えた。
「分かっている。それでも白雪と共に行動をしてもらいたい。オビしかいないんだ……」
 ゼンは手を組んでいる拳に額をつけた。拳の向こうで辛そうな表情をしていた。
「白雪のことが心配なんだ。本人もかなり精神的に落ち込んでいる。
王宮から出て普通に暮らしができるようになるまで見守って欲しい。それくらいしか俺にはできることはないんだ」
 ゼンは拳の向こうでギュッと目を瞑っていた。
 こんなに苦しそうな表情は今までに見たことがなかった。まるで麻酔なしで傷口でも塗っているかのような辛そうな表情だった。
「主……」
「もちろん資金は出す。白雪に直接渡しても受け取ってくれないだろうからな……」
 ゼンは拳の向こうで目を開けて自嘲気味に笑った。
 オビは静かに頷く。
「わかりました、引き受けます。報告は……主への報告はどれくらいの頻度ですればいいですか?」
「それはオビに任せる。……報告はしなくてもいい。報告されても辛いだけかもしれないからな……」
 ゼンが悲しそうに笑った。こんな切ない表情のゼンは今までに見たことがなかった。
 両脇で控える木々とミツヒデも何も声を発することはなかった。目を伏せ、二人とも居たたまれないような辛そうな表情をしていた。
「わかりました」
 オビは静かに返事をした。


***

「皆さん、本当にお世話になりました」
 白雪は丁寧に赤い頭を下げた。
 白雪を見送る一行は、王宮の中で一番小さく目立たない門の前にいた。
 時は夕暮れで、遠くの空がうっすらと茜色に染まっている。少し高い空を見上げると、薄い唇のような三日月がほのかに白く浮いていた。
「白雪さん!」
「白雪君っ」
 ガラクやリュウをはじめ、薬室のみんなが白雪の名前を呼んで別れを惜しんだ。
 口々に皆、「何もしてあげられなくてごめんなさい」と言っていたが、白雪は笑いながら穏やかに首を振った。
 木々やミツヒデも大粒の涙を次から次へと流していた。白雪は二人の前へ行く。
「木々さん、そんなに泣いてはお腹の子に触りますよ」
 白雪が声をかけると木々は更に声を上げて泣いた。白雪に抱きつき、別れを惜しんでた。
 充分にみんなと別れを惜しんだ後、白雪はゼンに向き合う。
 ゼンは眉間に皺を寄せ悲痛な表情で白雪を見つめていた。青い瞳が悲しさと寂しさに満ちていた。
「そんな顔しないでよ、ゼン。笑って別れよう」
 白雪は辛い気持ちを押さえて思いっきり笑ってみせた。
 最後に見つめたゼンは、笑顔のゼンであって欲しかった。悲しい表情のゼンを心に残したくなかった。
「そうだな……」
 青い瞳にうっすらと浮かび上がった涙を、ゼンは手の甲で拭った。泣きながら笑顔になる。
「ゼン、今まで本当にありがとう」
 笑顔の白雪はゼンの前に右手を差し出した。ゼンはすぐさま白雪の手を取る。
「ああ、こちらこそ本当にありがとう。白雪、すま……」
 そう言いかけたところで白雪はもう片方の手で彼の口を塞いだ。
「もう謝らないで……」
 白雪は苦笑いしながら首を振る。赤い髪がふわりと揺れた。
「わかった……」
 ゼンは頷きながら白雪が口を塞いだ手をとる。白雪の両手を合わせ、その上から自身の両手を重ねた。
強い力で手を握られた白雪は、その強さと温かさにハッとなり、ゼンの顔を見つめる。
「白雪、元気で……。白雪の幸せ祈っている」
 ゼンの優しい青い瞳が白雪を見つめていた。その穏やかな笑顔に、白雪は喉の奥が熱くなった。
 笑顔で別れようと言ったのは自分なのに涙が溢れだしそうになる。喉の奥にこみ上げてくる熱いものをグッと飲み込み、涙を堪えた。
 ここで泣くわけにはいかない。笑顔で別れるのだ。
「は…い。ゼンもお元気で……」
 白雪はゼンの笑顔を見つめ、思いっきり笑って見せた。
 涙を堪えたため、声はかすれてしまった。両手を握ってくれている彼の手が温かかった。
この温かさとぬくもりにずっと包まれていたかった。この手を離したくない衝動に駆られる。
「じゃあ……もう行くね。暗くなっちゃうし……」
 強く握られている手をほどくようにすり抜ける。
 手を離したくなかった気持ちからか、無意識にすり抜ける直前でゼンの親指以外の四本の指をギュッと握ってしまった。
 別れは決心したのにまだゼンのことが好きだった。
「白雪っ……」
 ゼンが早口で名前を呼んだ。切羽詰まった表情でこちらを見つめていることは分かった。溢れ出る涙を堪え、最後に思いっきり笑顔を作る。
「ゼン、みんな……ありがとう!」
 そう告げてから、白雪はみんなに背を向けた。
王宮の門を向かって歩いてゆく――。
「白雪!」
 名前を呼ぶゼンの大きな声が鼓膜に響く。その声に肩が震えた。
 木々やミツヒデ、薬室のみんなの声も聞こえた。口々に名前を呼ばれたが、振り返ることはしなかった。
 大粒の涙が、頬に次から次へと伝わる。
 ――本当は別れたくなどなかった。ずっとずっとゼンとみんなと一緒にいたかった。
 この涙がそれを証明している。
 もしも、今、振り返ってこの涙を見せたら、ゼンはきっと私を追ってきてしまう。
 だから振り返れなかった。
 後ろから静かな足音が聞こえた。半歩後ろ誰かが付いてきていた。
「お嬢さん……」
 オビに小さな声で呼ばれたが、涙で返事なんてできなかった。
 オビの方を見る事もなく、そのまま前へ向かって歩いていった。
 王宮の門を出る直前、半歩後ろから付いてくるオビが、一度だけ振り返った気配がしたが、白雪はまっすぐ前を向いていた。
 一度も振り返ることなく、王宮を後にした。



 王宮を出て、皆の姿が完全に見えなくなったところで、
白雪は立ち止まり一度涙を拭った。オビも同時に止まっていた。
 薄暗くなりかかった空を見上げると、銀色の光を放つ細い三日月が浮かんでいた。
 その光も、次に出てきた涙ですぐに視界から消えていった。
「行きましょう、お嬢さん」
 オビに軽く肩に触れられ、無言で頷いた白雪は再び歩きはじめる。
 白雪の半歩後ろにいたオビは、今度は半歩前に出ていた。

 涙を流し続ける白雪をそっと先導していった。




♪続く


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