顕微鏡探偵 顕太郎
〜消えた北一硝子の行方を追え!

1.消えた北一硝子
2.仕掛けられた罠
3.真夜中の探索
4.北一硝子の行方



1.消えた北一硝子

「えっ、届いてないよ」
「血液検査室に行くっていう実習生がいたから、北海道のおみやげの北一硝子を
一緒に持っていってもらったんだけどない?」
「うん、何にもないみたい」
 仕事の終わったある日の夕方、新人検査技師A子と同期のC美との
会話であった。
 C美は先週、有休をとっており、北海道へ旅行していた。
A子のおみやげに買った北一硝子のグラスを、A子のいる血液検査室に行くと言った
実習生B子に、ついでに持っていってもらったのだ。
 B子が血液検査室に行ったとき、A子はマルクに行って席を外しており、
検査室の隅にある恒温槽の恒子さんの隣に北一硝子を置いた。
だが、A子が戻ってきた時には恒子さんの隣には何もなかったのだ。
 A子とC美は検査室中を探し回った。しかしその日、おみやげの北一硝子を
発見することはできなかった。仕方ないのであきらめて2人は帰ることにした。



 夜10時――検査室には数時間前から静寂が訪れていた。
その静寂を破ったのは、自称血液塗沫標本の大ベテラン、顕微鏡の顕太郎であった。
「おい、顕次郎起きろ!」
「はい、何でしょう、顕太郎アニキ!」
 最近入った新品の顕微鏡、顕次郎が元気よく先輩に返事を返した。
「顕次郎、事件だ。事件! A子の土産の北一硝子が消えた!」
「ああ、あの夕方C美さんと話していたことですね」
 興奮している顕太郎に影響されることなく、新米顕微鏡の顕次郎は
妙に落ち着いた返事をした。
「俺はこれから消えた北一硝子の行方を調べようと思う。顕次郎、これから俺の
ことは”探偵”と呼んでくれ!」
 顕太郎は胸をはって得意そうに言った。
「はぁ〜? 探偵ですか? どうしてそんな呼び方をしなくちゃいけないんです?
顕太郎アニキ?」
「顕太郎じゃない”探偵”だ。そう呼んだほうが、これから謎を解く上で
雰囲気が出るだろう!」
「謎って……おみやげの北一硝子のことですか? 別に謎ってほどの事件じゃないと
思いますけど。ルーチン検査に何か支障があるってわけではありませんし……」
「ばかやろう!」
 顕太郎は後輩顕微鏡に向かって怒鳴った。怒鳴られた顕次郎は驚いて光源ランプを一瞬光らせた。
「お前はA子が困っているのを見なかったのか? 困っている人を見たら助けるのが
顕微鏡の努めだぞ! だから消えた北一硝子の謎を解くのだ」
「ひいいいいい、そんな顕微鏡の努め初めて聞きましたが、顕太郎アニキに協力させて
いただきます」
 先輩顕微鏡に怒鳴られた新入り顕微鏡は素直に従った。
「顕太郎アニキじゃない、”探偵”だ。それにお前は助手のワトソンだ。これからお前の
ことはワトソンと呼ぶ、いいな!」
「えー、何だってそんな呼び方……」
 顕次郎はこの探偵ごっこ自体に乗り気ではないようであった。
「なんだ、顕次郎、逆らうのか? 新入りのくせに!」
 顕太郎は自分の電源コードをコンセントから抜きブンブンと振り回した。
「い、いいえっ! とんでもありません。顕太郎アニキ……いや、探偵の
助手をさせていただきますっ!」
「探偵じゃない”探偵”だ! ちゃんと” ”を付けろ!」
「どうしてですか?」
「今回は某コーヒーブレイクのような字数制限はない。ネットだからいくら無駄に字数を
使ってもいいからだ!」
「あまり意味のない理由ですがわかりました! ”探偵”」
 顕微鏡の世界……なかなか上下関係が厳しいようである。先輩の言った事には絶対服従。
顕次郎はたった今から顕太郎の助手ワトソンになった。
「ところで……北一硝子って何だ?」
 探偵の質問に助手は思わず力が抜けてしまった。
「顕太郎アニキ……いや、”探偵”はそんなことも知らないで謎を解こうとしていたんですか!
北一硝子っていうのは北海道、小樽の運河に並ぶ有名な観光名所ですよ。
明治20年代に建てられた石造倉庫を利用し、北欧や小樽硝子を中心とした
世界のランプやガラス工芸品を展示販売しているところです。
古い倉庫を利用したお店の中には、たくさんの幻想的なガラス製品があり、
ランプの灯がとても綺麗なんですよ」
 ワトソンは丁寧に説明した。
「まるで行ったことのあるような詳しい説明。顕微鏡のくせに何でそんなことに
詳しいのだ? 奇妙な顕微鏡だな!」
 顕太郎の言うとおり確かに奇妙な顕微鏡である。
「北一硝子について聞いたのは”探偵”あなたでしょう。奇妙呼ばわりされる
覚えはありません!」
 顕次郎は接眼レンズから湯気を立てて怒った。
「まあまあ落ち着け、ワトソン君。血圧が上がるぞ。A子は北一硝子のグラスがなくなったと
言っていたな。北一硝子がどんなものか分かったところで聞き込み調査に入ろう!」
「聞き込み調査! だんだん探偵らしくなってきましたね!」
 しぶしぶ探偵ごっこに乗った顕次郎であったが、だんだん雰囲気が出てきたので
胸がドキドキしてきた。
「顕次郎、いやワトソン君、今すぐ電源プラグを抜いて聞き込みに行って来い!」
「わ、私一人で行くんですか? ”探偵”も一緒に聞き込みしてくださいよ」
「何を言う! ”探偵”とは偉いのだ。聞き込みなどそんなことは助手の仕事だ。
早く行け! ワトソン君」
 自称”探偵”は偉そうにふんぞり返っていた。わがままな探偵に助手ワトソンは
振り回されっぱなしである。
「はいはい、わかりましたよ。聞き込みしてくればいいんですね。検査室内でいいですか?」
「『はい』は一回でいい! ワトソン! 検査室内の機器たちに聞き込みして来い!」
「はいっ!」


2.仕掛けられた罠

 電源プラグを抜いた顕次郎はしぶしぶ聞き込み調査に入った。
遠心分離機の遠子、恒温水槽の恒子、冷蔵庫の冷子、冷凍庫の雪子etc……、
顕次郎は様々な人に、……いや検査機器たちに消えた北一硝子についての手がかりを聞いた。
「”探偵”! 聞き込み調査終わりました!」
 顕次郎は息を切らせて兄貴分に報告した。
「どうした? 手がかりはつかめたか?」
 顕太郎は目を輝かす。
「いいえ! 重大な手がかりとなることはありませんでしたが、北一硝子を部屋に持ってきた
ときの状況を恒温水槽の恒子さんから聞き出すことができました」
「どんな状況だ?」
「実習生B子さんが検査の試薬と一緒に持ってきたと言っています。B子さんは恒温水槽の
隣の空きスペースに試薬と一緒に北一硝子のおみやげを置いたそうです。A子さんが
いなかったから、すぐそばにいた技師のDさんにA子さんへ北一硝子を渡してもらうように
頼んだらしいんです」
「で、DさんはA子に渡したのか?」
「いいえ、Dさん大変忙しかったらしく、A子さんがマルクから帰ってきても
声をかける余裕がなかったみたいです。DさんがA子さんに北一硝子を渡した
という目撃情報はありませんでした」
 助手のワトソンは落ち着いて答える。
「じゃあ北一硝子は恒子婆さんの隣に置かれたままだったのか? 恒子婆さんは
何と言っている?」
「はぁ、あの〜、恒子さんはご高齢ということもあってそれからお昼寝モードに
入ってしまったらしいです。恒温水槽の37℃というのは大変気持ちのいい温度の
ようで……。寝ていたので覚えていないと仰っています」
 ワトソンは申し訳なさそうに探偵に報告する。
「何だと!  寝てただと! 肝心なところで役に立たないではないか!
ちょっと文句を言ってくる!」
 ”探偵”こと顕太郎は電源プラグをぶんぶんと振り回し、まるで恒子さんに殴りこみに
行くような勢いであった。
「わあああああ! 顕太郎アニキやめてください! 相手を誰だと思っているのですか!
検査室内最高齢の恒温水槽の恒子さんですよ。誰も知らないくらい昔から
検査室にいて、凝固検査の手振りの時代はもちろんのこと、臨床検査の真髄を
知り尽くしていると言われる恒子さんです。今は穏やかなお婆さんだけど
昔はバリバリ仕事をこなしたキャリアウーマンだったとか……。
もし怒らせて恒子さんで温められたお湯でもかけられたらひとたまりもありませんよ!
私たち精密機械は水分に弱いんです!」
 ワトソンは必死に探偵を止めた。
「むむむむむ、婆さんなのに恐るべし! 恒子めっ!」
「しっ! 恒子なんて呼び捨てにしたらいけませんよ。聞こえたら
どうすんですっ!」
 顕次郎ことワトソンは先輩の口をふさぐ。顕太郎は仕方なく小声で話す。
「恒温水槽の恒子、奴はもしかしたら消えた北一硝子の行方に関わっているかも
しれん! メモしておこう」
「だから呼び捨てにしちゃいけませんってばっ!」
「そうだっ!」
 助手が言い終わらないうちに顕太郎が大きな声で叫んだ。
「どうしたんですか? 突然大きな声を出して」
「B子は検査の試薬と一緒に北一硝子を持ってきたと言っていたよな」
「はあ、そうですが……」
「普通、試薬といったら、冷蔵保存するもの。北一硝子は
試薬と一緒に冷蔵庫にしまわれたということはないか?」
「それはありえるかもしれませんね。さすがは”探偵”ですね!」
「ふふふ、名探偵シャーロック・ホームズならぬ顕微鏡だから
シャーロック・レーンズと呼んでくれ。ワトソンくん」
 名探偵は接眼レンズをキラリと光らせて得意気であった。
「では名探偵、さっそく冷蔵庫の中を調べに行きましょう」
 顕次郎もかなりヨイショが上手くなってきたようである。


「冷蔵庫の冷子、ちょっと扉を開けてくれ」
「はぁ? 何なのよっ! こんな夜中に何の用?」
 さすがに顕微鏡の小さな?体では、業務用の大型冷蔵庫の扉を開けることは
できなかった。冷ややかで冷たい性格の冷蔵庫の冷子は、睡眠を邪魔されたと
あって、更に態度が冷たかった。
「昼間、試薬と一緒にA子のみやげの北一硝子がお前の中にしまわれた
可能性があるんだ。ちょっと調べたいんだ」
「さっきも聞き込み調査だとかいって顕次郎が来たじゃない!
あたしの中に北一硝子なんて入ってないわよっ!」
 ヒステリックな声をあげて冷子は叫んだ。
「まあまあそう怒らずに。冷蔵庫と顕微鏡の仲じゃないか」
「はぁ? 冷蔵庫と顕微鏡にどんな関係があるっていうのよ!」
 根拠のない理由で冷子を落ち着かせようと思った顕太郎だが逆に突っ込まれてしまった。
 名探偵顕微鏡は少し考える。
「うーん、冷蔵庫と顕微鏡…………無関係という関係でどうだ!」
 冷子はしばらく沈黙したが、顕太郎の言うとおりにしてさっさと用を済まそうと思った。
「まったく付き合ってられないわ! 仕方ないわね。はいどーぞ」
 冷子はしぶしぶと顕微鏡探偵たちのためにドアを開けた。
 顕太郎たちは冷蔵庫の中に入った。冷えた空気が探偵と助手を取り囲んだ。
「おい、電気もつけてくれ!」
「注文の多い顕微鏡ね!」
 冷子はぶつぶつと文句を言いながら冷蔵庫内の豆電球を点した。
 すみずみまで冷蔵庫の中を探したが、検査試薬や測定の終わった検体ばかりで
北一硝子らしきものは見つからなかった。
「ないですねー、顕太郎アニキ!」
「そうだなぁ。対物レンズで1000倍に拡大しても見つからないなぁ」
 顕太郎は自分のレンズで拡大して冷蔵庫の中を見回した。
「北一硝子のグラスって……そんなに小さいものなのでしょうか……」
 迷探偵?の助手は眉をしかめた。
 結局、顕太郎たちが探した範囲内では、冷子の中に北一硝子はなかった。
探偵と助手は冷子にお礼を言って冷たい冷蔵庫の中から出た。
「うーむ、そう簡単に謎が解けるわけないよな。この事件は偶然おきた事件ではなく、
故意に何者かが起こした事件かもしれないぞ!」
「恋に? 誰かが恋したんですか?」
 顕次郎の頭に?マークがいくつも飛ぶ。
「バカモノ! その恋ではない。故意にだ! A子に恨みのある者や嫌いな者が
わざと北一硝子を隠したのかもしれない」
 顕次郎のボケのセンスもなかなかのものである。
「そそそそそ、それって検査室内のイジメってことになりませんか?
A子さんかわいそうに……」
「と、いうわけでワトソン君、再び聞き込みだ! 検査室内の機器にA子に
恨みをもっている人物がいないか調査してくるのだ!」
「えー、また僕が行くんですか? さっき行ったばかりじゃないですか」
 また冷子さんたちに聞き込みをしなければいけないと思うと顕次郎はゾッとした。
「お前さっきA子がかわいそうだって言っていたじゃないか!
A子がこのままいじめられたままでいいのか? 薄情な顕微鏡め!」
「はいはい、わかりましたよ。行ってきます」
 また冷子さんたちに嫌な顔をされると思うと聞き込みも憂鬱な顕次郎であった。


「”探偵”只今戻りました……」
 数十分たって助手ワトソンは浮かない顔をして探偵のところに戻ってきた。
「おお、聞き込みご苦労さん。それでA子に恨みを持つ人物、わかったか?」
「はい……、検査機器たちに聞き込みをしました結果、口を揃えて
皆ある特定の人物の名前を挙げていました」
「おお、きっとそいつが北一硝子を盗んだ犯人に違いない! 誰だ!」
 顕太郎は犯人がわかると思うと興奮していた。
「今言うんですか?」
「せっかく調べてきたのに上司に報告しないでどうする!」
 はぁ〜と生返事をして顕次郎はうつむいた。
「じゃあ言いますよ。皆さんが口を揃えて言っていた人物は!」
「人物は?」
 名探偵はドキドキして助手の口から出てくる次の言葉を待った。
「顕太郎アニキ、あなたです!」
 顕次郎は声を大きくしていった。
 しばし自称名探偵はフリーズしていた。
「どの機器たちに聞いても、『顕微鏡の顕太郎はA子に使い方が荒いとか
ばかやろうとか文句をよく言っている』と口を揃えて言っていました」
 顕太郎は深い溜息をついて部下に言った。
「……顕次郎。お前は本当にバカだな。俺がA子に恨みを持っていたら、
なくなった北一硝子など探すわけがないだろう。俺が犯人のわけがない!」
「はぁ、そうですが……」
 顕次郎はすっかり身を狭くしていた。
 しかし突然、探偵は大きな声をあげる。
「わかったぞ! これは罠だ! 俺が北一硝子を盗んだように見せる、本当の犯人の
罠なのだ! きっと犯人は俺たちが聞き込みをすることをあらかじめ知っていて、
事前に口裏あわせするように機器達に言っていたに違いない! 仕掛けられた罠なのだ!」
「聞き込みしてそうは思えませんでしたけど……」
「本当の犯人からの挑戦! 名探偵シャーロック・レーンズこと顕太郎、受けて立つぞ!
今に犯人を見つけてやる!」
 顕次郎の言うことなど全く聞いていない顕太郎。仕掛けられた罠だと
思い込んでいる顕太郎はすっかり興奮し、背景にはメラメラと炎が見えていた。
 もちろん後ろで助手のワトソンがアルコールランプにいくつも火をつけていたことは言うまでもない。


3.真夜中の探索

「ちょっと状況を整理してみよう。C美は有休をとって北海道旅行へ行き、
同期のA子に北一硝子をお土産に買ってきた。A子のいる血液検査室に行くと
いった実習生B子に、C美は一緒に北一硝子を持っていってもらうように頼んだ。
血液検査室に行った実習生B子は、恒温水槽の恒子の隣に試薬と一緒に
北一硝子を置いた。ちょうどこのときA子は席を外していたため、
B子は北一硝子を渡してくれるよう技師のDさんに伝言を頼んだ。
しかしA子が検査室に戻ってきた時には、北一硝子はすっかり姿を消し、
どこにも見当たらなかったのである。消えた北一硝子は何処に……? 
今までの取調べの結果、犯人はA子に恨みをもつ人物と推定される。
それも犯人は、北一硝子の行方を追う我ら探偵にも罠を仕掛けてきたのだ!
犯人は恒温水槽の恒子か、冷蔵庫の冷子か、検査技師のDさんか、意標をついて
同期のC美か? 名探偵シャーロック・レーンズこと顕太郎と、助手のワトソンこと
顕次郎は今この難題に挑んでいる」
 すっかり探偵ぶりが板についた顕太郎は、この長台詞を一度も使えることなく
スラスラと言った。
「”探偵”! まるで○曜サスペンス劇場のような語り方ですよ。素晴らしいです!」
「ふふん。そうだろう」
 顕次郎のお世辞にすっかり自分に酔っている顕太郎であった。
「それにしても犯人わかりませんねぇ」
「深まる謎。犯人はA子だけでなく、我々にも恨みを持つ人物かもしれんな。
今まではこの血液検査室内で調査をしてきたが、これからはもっと視野を広げようと思う」
「視野をって……この検査室以外のどこを探すのです?」
 新米顕微鏡は首の代わりにレンズを傾げる。
「北一硝子を買ってきた張本人、C美はどこの検査室にいる?」
 探偵は不敵な笑みを浮かべて助手を見る。
「確か心電図室ですよね……」
 奇妙な笑いを受け取った助手は後ずさりしながら答える。
「そう、A子の同期のC美は心電図室に配属されているんだ。もしかしたらC美が
犯人かもしれない。もとからA子のために北一硝子など買ってきていなかった……
C美の狂言と言うことも考えられないか?」
「あまり考えられると思いませんが……」
 助手は思ったことを素直に探偵に言ったが、自分に酔っている探偵の鼓膜には
すでに届いていなかった。
「C美のいる心電図室に聞き込み調査に行こうと思う。あそこには熱ペン直記式心電計の
美子がいるからな。奴にC美の行動を聞こうと思うんだ」
「美子さんに聞きに行くって……まさか3階にある心電図室まで聞きに
行くつもりなんですか?」
 顕次郎はビックリして声を1オクターブ高くした。
「心配するな。今度は俺も一緒に行ってやるから……」
「そういう問題じゃなくて、私たちのいる血液検査室は2階、心電図室は3階ですよ。
この検査室から出るつもりなんですか!」
 更にもう1オクターブ声を高くして先輩顕微鏡に言った。
「当たり前だろう。○ラえもんのどこでもドアでもあればいいが、21世紀になった
現在でも、どこでもドアは開発されなかったからな。我々の足で行くしかない」
 足はどこにあるのか? という突っ込みは入れないで頂こう。
「あ、あの……私たち検査機器が検査室から出てもよいものなのでしょうか……?」
 恐る恐る新米顕微鏡は先輩に尋ねる。
「なんだ、お前この検査室から出たことなかったのか? 昔はよく検査技師が
帰ったあと、検査室から脱走して遊んだもんだぜ。なんてことはない。さあ、行こう!」
 顕太郎は助手の電源コードを無理やり引っ張って連れて行こうとした。
「脱走するだなんて……。いくら夜中とはいえ、夜勤の看護婦さんに出くわしたら
どうするんです?」
「なぁに! 通りすがりの顕微鏡だと思わせればいいさっ!」
「どうして顕微鏡が通りすがるんですかっ!」
「つべこべ言わずに行くぞ。ワトソン君!」
 聞き込み調査に張り切る探偵にやはり助手は振り回されっぱなしのようである。

「よし、エレベーターに乗るぞっ!」
 エレベーター乗り場の前まで来て、顕太郎は電源コードをしゅるしゅるっと伸ばし
↑のボタンを押した。
「け、け、顕微鏡がエレベーターに乗っていいんですかっ?」
 初めて検査室の外から出た顕次郎はドキドキしっぱなしであった。
「いいに決まってるだろ。顕微鏡がエレベーターに乗ってはいけない規則などない!
それに、顕微鏡に階段が昇れると思うのか? 3階についた頃には日が昇っちまうぜ」
「はあ……それはそうですが……」
 顕次郎が不安を口にしているうちに、チンと音が鳴りエレベーターが来た。
扉が開いたエレベーターにはとりあえず誰もいない。
探偵を先頭にエレベーターに乗り込んだ。
 もう一度チンと鳴り3階に着いた。
「心電図室はこっちだ」
 顕太郎は右に曲がり顕次郎もその後をついていった。
 ビクビクしながら顕次郎は真夜中の病院の廊下を進んでいた。すると……
パターン、パターンと人間の足音が顕微鏡たちの耳に入った。
前方から人が近づいてきたのだ。
「ひっ!」
 顕次郎は恐怖に短く叫んだ。先輩顕微鏡は咄嗟に後輩の口をふさぐ。
「前から来るのは眠れない入院患者と見たな……。顕次郎、廊下の隅に寄って
動かないでそのままじっとしているんだ!」
 2台の顕微鏡は隅によって息を殺した。パジャマにスリッパ姿の初老の男が
顕太郎たちの前を通り過ぎた。そのまま探偵と助手を振り返ることなく
パターンパターンと音を立てて真夜中の病院の暗闇に消えていった。
「ふう、大丈夫なようだな……」
 探偵は大きく溜息をついた。
「だだだだだ大丈夫って……あの眠れない入院患者さん、通りすがる時に
チラリと私たちのほう見ていましたよ。朝看護婦さんに告げ口でもされたら……」
 顕次郎は脂汗をかきながら心配した。
「忙しい看護婦が患者が夜中に見た幻なんて信じるわけがないさ!
さあ、心電図室に行くぞ!」
「でも……」
「つべこべ言ってると置いていくぞ!」
 煮え切らない後輩に顕太郎はしびれを切らす。
「わああああ、置いていかないで下さい。行きます行きます!」
 頼る者は先輩しかない顕次郎は慌てて後を追った。

 
 ――心電図室。ベッドが数台並び、その横に心電計と思われる検査機器があった。
もちろん部屋の電気は消え、音もなく心電図室は闇につつまれていた。
はじめて心電図室に入った顕次郎は物珍しそうにキョロキョロと部屋を見回していた。
 探偵コンビは一台の心電計に近づいた。熱ペン直記式心電計の美子である。
「おい、美子……美子!」
 顕太郎が声を低くかすれさせて名前を呼んだ。
 美子は返事がない。
「心電計の美子さん……寝てる……みたいですねぇ」
 顕次郎も小さな声ではじめてみる心電計をジロジロと見つめながら言った。
 検査機器も眠る丑三つ時なので眠っていても当然のことであった。
「仕方ないな……起こそう。ワトソン君、美子の電源スイッチをONにするんだ!」
「ええっ! 僕が起こすんですか? せっかく気持ちよく眠っているのに
起こすなんて可哀想ですよ」
 やさしい助手は美子の電源スイッチを入れることを拒んだ。
「何を言っているんだ! 美子に何も聞かないで帰ってどうする。危険を犯してまで
心電図室に来た意味がないだろう。スイッチをオフ(o)からオン(|)にするんだ!」
「はい……わかりました」
 助手は仕方なく上司の言うとおりにした。クニャクニャとした電源コードを
美子のスイッチまで伸ばし、パチンと電源をオンにした。
 ガッ!
 6チャンネルの熱ペンが同時に動き心電計がリセットされた。
「きゃああああ、なになに? もう朝?」
 電源スイッチを強制的に入れられた美子がビックリして目を覚ました。
「おう! 美子。久しぶりだな。お前にちょっと聞きたいことがあるんだ」
 真夜中の訪問の突然の訪問にも関わらず、顕太郎は偉そうな態度であった。
初対面の顕次郎は「はじめまして」と丁寧にお辞儀をしていた。
「顕微鏡の顕太郎じゃない。それに……まだ夜中じゃないの! 一体何なのよ
何しに来たの!」
 やすらかな睡眠を邪魔されて美子はお怒りモードであった。
「ちょっとC美について聞きたいことがあるんだ。この頃C美について
変わったことがなかったか?」
「はぁ? 検査技師のC美ちゃん? 別に……先週有休とって旅行に行っていた他は
変わったことはないけど……」
 寝起きの心電計は不機嫌そうに答える。
「C美が誰かを恨んでるとかそういうことはないか? 例えば同期のA子とか……」
「誰かを恨んでる? あの温和なC美ちゃんに限ってそんなことあるわけないじゃない。
一体何なの?」
 真夜中に起こされ、かつ奇怪な質問をされて美子は混乱気味であった。
聞き込み調査の傍らで、顕次郎は物珍しそうに初めて見る心電計を眺めていた。
「うわっ! 何するのよ!」
 美子の驚きの声と共に感熱紙が心電計から流れ出した。興味本位で顕次郎が
心電計のペーパーフィードを押したのである。
「あっ、すみません。初めて心電計を見るもので……」
 顕次郎が申しわけなさそうに言った。
「まったくもう! 何なのよあんたたち! あたしはもう寝るわよ。
寝不足は美容の敵なんですからね。明日綺麗な波形が取れなかったら
あんたたちのせいよ! ふん!」
 美子は怒って自ら電源をオフにして寝てしまった。
 C美についての情報は得られず、消えた北一硝子の謎は更に深まるばかりであった。
「”探偵”私たちもいいかげんに戻りましょう。もうすぐ夜が明けます。
それに今日も通常通り仕事があるんですよ。末梢血液像が待っています!」
 窓の外の黒から群青色に変わってきた空を見て探偵を急かした。
「仕方ないな……とりあえず引き上げよう……」
 顕太郎の強引な性格も夜明けには勝てず、来た時と同じエレベーターに
乗って検査室に帰っていった。




4.北一硝子の行方

 朝日が昇り、夜勤の看護婦たちが忙しく動き回る朝が来た。
食事前に採血された生化学や血算の検体が、緊急検査室に搬送されている。
外来の再診受付には診察券を持った患者が病院の玄関を出入りし、
寝起きの太陽とともに病院が動き出していた。
 顕太郎たちも血液検査室に帰り、いつものポジションに身を据えて
今日の仕事大人しく備えた。
「ふぁ〜あ、やっぱり眠いですね。”探偵”」
 顕次郎が大あくびをしながら言った。つられて顕太郎も大きなあくびをする。
「そうだな……結局、北一硝子の行方もまだ謎に包まれたままだな」
 もう北一硝子のことなどどうでもいいと思う顕次郎であるが、
先輩顕微鏡はまだ諦めきれないらしい。
 A子をはじめとする血液検査室に勤務する検査技師たちも出勤してきた。
「おはようございます」と検査室に声が重なり、今日も血液検査室の一日が
始まろうとしていた。
 探偵とその助手は昨晩何事もなかったかのように、無言で顕微鏡の仕事をこなしていた。

  ***

 検査室の時計の針が天井に向かって重なり、お昼休みとなった。
 A子は12時を5分過ぎるまで検査室の雑用をしていると、同期のC美がやってきた。
「ねえ、おみやげの北一硝子ってやっぱりここにない?」
「うん、ないみたい……。どこにいちゃったんだろうねぇ。とりあえずお昼に行こうか」
 顕太郎たちが昨晩探偵をした北一硝子はやはりまだ見つかっていないようである。
「うん。じゃあちょっとお手洗い行ってくるから待ってて」
「うーん」
 C美は白衣を翻し、3階の突き当たりにあるトイレに走っていった。
 トイレにC美の姿が消えるや否や……
「あーーーーー!」
 というトーンの高い叫び声がトイレから響いた。
「どうしたの!」
 同期の叫びを聞いたA子はトイレに向かった。中に入るとC美はトイレに1つだけある
くもりガラス製の窓を見つめていた。
 窓のサッシには、かわいらしいマーガレットの花が花瓶にささって置いてあった。
検査室内にお花好きのEさんという技師がおり、切り花や小さな鉢植えを
持ってきては、検査室やトイレの殺風景な窓辺を彩っているのであった。
「北一硝子が……私のおみやげの北一硝子のグラスが花瓶に……」
 マーガレットの花が挿してあるのは赤を基調としたグラデーションのかかった
幻想的な花瓶……のように思えたが、それはC美のおみやげの北一硝子のグラスだったのである。
「えっ! あのきれいな花瓶が北一硝子なの!? 昨日帰るときもあったよ!」
 A子は驚いて花瓶とC美の顔を交互に見た。
 ――内情はこうだった。
 実習生B子が恒温水槽の恒子さんの隣に北一硝子を置いた。お土産とは知らず、
北一硝子を見つけたお花好きのEさんは「ちょうどいい綺麗なガラスの花瓶があった」と思い、
持ってきたマーガレットの花の花瓶にして、女子トイレの窓辺に飾ってしまったのである。
もちろんEさんは北一硝子の花瓶……いやグラスが誰のものか検査室内の人に聞いたが、
皆忙しかったのか、誰も返事をしなかった。
行方の知れなくなった誰かの忘れ物だろうと勝手に判断したEさんは、
お土産の北一硝子をマーガレットの花瓶にしてしまったのであった。
「あらー、あの花瓶、A子ちゃんへのお土産だったのー。ごめんなさいねー。
あははははは!」
 検査室内にEさんの大らかな笑いが響いた。
もちろん悪気があってしたことではないが、A子のみやげの北一硝子を花瓶にして
しまったことなど全く気にしていないようである。
「Eさん、花瓶じゃなくてグラス……」
 A子は小さな声で呟いたがEさんの大らかな笑い声に消されてしまった。

  ***

『北一硝子、見つかりましたねぇ〜。”探偵”』
 技師たちが皆、食事に出かけた昼下がり、顕次郎が先輩顕微鏡にサラリと言った。
『俺は顕太郎だ! ”探偵”なんて変な名前で呼ぶんじゃない!』
 自分の名探偵ぶりが奈落の底に突き落とされた顕太郎は、かなり不機嫌であった。
 結局昨晩、検査室から脱走までして調べた北一硝子の行方は、
灯台下暗し、または青い鳥のようなパターンですぐ側に……近くにあったのだ。
犯人はお花好きのEさんで、かつ彼女は悪気があってやったわけではない。
名探偵シャーロック・レーンズこと顕太郎の探偵調査は、保険点数の請求できない
ボランティア検査の如く、水の泡となって消えてしまったのである。
 プライドの高い顕太郎が、自分が昨晩探偵と名乗っていたことを
否定したくなるのも無理もない。寝不足も重なり彼の不機嫌指数はかなり高かった。
 一方、名探偵とその助手を使用するA子とEさんは、2台の顕微鏡の昨日にはない
ある変化に気づいていた。
「なんか今日は顕微鏡のレンズが曇るなぁ〜」
 顕太郎を使っているA子がアルコールを含ませたガーゼでレンズを拭きながら言った。
「あら、A子ちゃんの顕微鏡もそうなの? この顕微鏡もまだ新しいはずなのに
今日はレンズが曇っているのよ……」
 新米顕微鏡の顕次郎を使うEさんも、レンズを吹きながら不思議そうに顕微鏡を
眺めていた。
 寝不足顕微鏡と共に、A子とEさんは午後の血液像を読み続けるしかなかった……。


おわり


**********************
 さすがに疲れた……(~_~メ)。
知り合いから教えてもらった「面白いミステリー」の書き方というのに
@頭の切れる魅力的な探偵
A二転三転する犯人像 
B探偵に仕掛けられる罠 
C意外な犯人 
これらを網羅すると面白いと聞いたので、全部クリアーしたら
こんなに長くなってしまった……。
肩がバキバキ!

(2001.11.18 ro-s)


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