顕太郎君の恐怖


 俺は顕微鏡の顕太郎。俺には怖いものが一つある。
恐ろしくて、口に出すのも嫌だ。だが、俺はいつもその恐怖と隣り合わせなんだ…。
 ルーチン検査で俺は血液像を読んでいる。
 ある日の夕方のこと。仕事も終わりに近づき、スライドも残り少なくなってきた。
俺を使っているA子は、もう終わると思うと嬉しくて、最後のスライドを軽やかに読んだ。
「終わったー! 帰れるー」
 そう言うとA子は俺の電源を消し、『お先に失礼します』と言い残し帰ってしまった。
(ちょ…ちょっと待て! A子! お前…最後のスライド、俺のステージに置きっぱなし
だ! ちゃんと片付けろーっ! じゃないと奴が…奴が来るんだ…。助けてくれぇ〜)
 俺は、最後まで残っていた主任にも必死で叫びかけた。
 だが、俺の叫びは聞こえなかった…。
 しばらくすると暗闇と静寂が検査室に訪れた。
『ガザ、ガザガザ、ゴソッ』
 静寂を破る奴の足音…。暗闇と同化する奴の六本の足音が聞こえてきた。
俺の宿敵ゴキブリが、今夜も不気味な足音と共に登場だ!
(うぎゃああああ〜。怖いー!)
 悲鳴を上げた。
 奴らは、薄く塗抹した血液標本が大好きなのだ。それも俺のステージにあるスライドは
ライト・ギムザ液で味付けもしてあるので、奴の格好の餌食だった。
よりによって、A子は顕微鏡のカバーもやり忘れて帰ったのだ。
 A子の残したスライドに向かって奴が近づいてくる。
(俺はゴキを初め、虫は嫌いなんだぁ〜。顕微鏡サイズならお任せだけど、
センチメートルサイズはダメなんだー。助けてくれぇ〜)
 必死の叫びにも関わらず、奴は俺のうなじ(アーム)を伝ってステージの上まで来た。
(オゾゾゾッ! ブルッ! さ、寒気が…)
 結局、奴はおいしそうな塗抹標本をペロペロ舐めて、気が済むと棲家に帰っていった。
 次の朝、何も知らないA子は呑気に出勤してきた。
「あっ! 昨日の最後のスライド、片付けるの忘れちゃった。
先輩に見つかるとヤバイから、こっそりしまっておこう…」
 A子! 俺の苦しみも知らないで……。
 今に見てろっ。ギャフンと言わせてやる!
 ……今日もこうして、顕太郎とA子の一日は始まろうとしていた…。

                医学書院 検査と技術 2000年 12月号コーヒーブレイク掲載


***
あー、今見ると一人称で書いてるんだから、顕太郎の思ったことの(カッコ)は
いらないよなー。まあ仕方ないかー。




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