夢の雫、薔薇色の烏龍
(ゆめのしずく、ばらいろのウーロン)


6.ラムセスの初仕事

 イブラヒム邸が朝から忙しい。原因は2つあった。イブラヒムの友人であるベネチア商人の
アルヴィーゼ・グリッティがしばらく滞在するため、小姓たちはその準備に追われていた。
 もう一つ、こちらはもっと大変な原因である。まだ水面下で行われていることだが、
どうやらスレイマンはベオグラード遠征を考えているらしい。高官たちの反対があり
まだ本決まりではないらしいが、イブラヒム邸ではベオグラード遠征の準備も密かに行われていた。
「えっ! メフメトもベオグラード行くのか?」
「はい。その予定です」
「じゃあ、俺も連れて行ってくれ。大砲ってやつを使うんだろ。実際に使っているところがみたい」
 メフメトがガラス玉のような無機質な瞳でラムセスを見つめる。
「ダメです。ラムセスは留守番です」
「なんでだよー。大砲見せてくれよ〜」
「今の状態でどこかに遠征など行ったら、物見遊山で敵と戦うどころじゃないでしょう。
もう少し、色々落ち着いてからです」
「う〜、ベオグラード行きたい……」
 ラムセスは不満そうにする。
 大砲を使っているところが見たいのは本心だが、この世界に来てからずっとメフメト一緒だった。
なので彼と離れるのはちょっと寂しい……というのは心の奥底の引き出しにしまっておいた。
「さあ、ラムセス。小姓たちに剣の稽古の時間です。中庭へ稽古しに行ってきてください」
 メフメトは蜂蜜色の背中を押す。
「はいはい」
 ラムセスはしぶしぶ中庭に向かった。

 剣の稽古は終わると、イブラヒムの友人で客人である、アルヴィーゼ・グリッティという人物が来ていた。
ベネチアの貿易商人で、希少価値の高い宝石、香辛料や絹糸、武器などの交易を行う、腕のいい商人であるという。
加えてアルヴィーゼの父は元ベネチアの元首であった。だが、彼は妾の子であったため、
一夫一妻制のキリスト教徒が多いベネチア祖国では肩身が狭いらしい。
対してオスマン帝国では一夫多妻制。身分や出自に関係なく、本人の能力次第で出世できる国だ。
妾の子だからといって冷遇されることはない。アルヴィーゼにとってイスタンブルの環境は心地よいものであった。
 居心地のいいイスタンブルの中でも更にくつろげるイブラヒム邸であったのだ。

 ある日、アルヴィーゼから、イブラヒムは驚く情報を突然耳にする。イブラヒムにとって、
居ても立っても居られない情報である。
 第一夫人のギュルバハルが欧州各国の夫人たちを招いて茶会を開くという。
それにヒュッレムも参加するのだというのだ。
 イブラヒムは血相を変えて屋敷から出ていった。ラムセスは突然飛び出していった主人に驚く。
急いでメフメトのところに走っていった。
「おい、メフメト! イブラヒムが一人で屋敷飛び出しちまったぞ!」
 メフメトにイブラヒムが茶会のことを聞いて一人で出て行ってしまったことを伝えた。
メフメトは真っ青になった。
「もしかしたら、ギュルハバル様の何かの罠かもしれません。イブラヒム様一人で行くには危険すぎます。
ラムセス、すぐに後を追えますか? 僕はどうしても手が離せなくて行けないんです」
「そうくると思った。まかしとけ!」
「ラムセスは馬に乗れますか?」
 メフメトが聞く。
「当たり前だ。エジプト軍総司令官をなめるなよ」
 ラムセスは金色の方の目を閉じてウインクを送った。
「じゃあ、馬屋のセピア色の馬を使っていいから、すぐにイブラヒム様の後を追ってください」
「承知した」
 ラムセスは馬屋に行き、彼のセピアの瞳と同じ色の馬を借りた。
「これがイブラヒム様付きの小姓としての、本格的な初仕事だな。飛ばすぞ!」
 メフメトから教えてもらった茶会の会場を目指して、ラムセスはセピアの馬を走らせた。


***

 ラムセスが茶会の会場に、着いたときにはもう茶会は終わってしまっていた。
建物からたくさん人が出てきていた。
 慣れない未来の街、イスタンブル。メフメトからしっかり場所を聞いたつもりだったが、
やはり迷ってしまったのだ。
「やばい……、もう茶会が終わってる……」
 せっかくの一人での初仕事。役立たずに終わったのかもしれない。
ラムセスは落ち込みつつもイブラヒムを探す。
 しばらくすると、イブラヒムは見つけられなかったが、先日、図書館で会ったヒュッレムを見つけた。
茶会が行われたであろう建物のバルコニーにいたのだ。ヒュッレムは何かを見つめている、
 視線の方を見ると――

 イブラヒムの姿があった。

 イブラヒムも同じようにヒュッレムを見つめている。
 見つめあう二人の姿を見て、ラムセスは気づいた。

 ――二人は想いあっている。

 ヒュッレムはイブラヒムが献上した女奴隷だという。どうして好きな女を、主人に献上
してしまったのであろう。そう言えばアルヴィーゼも言っていた。
「スレイマン陛下とイブラヒムの好みはそっくりだ」と。
 おそらく、ヒュッレムを思う気持ちに気づく前に献上してしまったのであろう。
今だって、第一夫人の罠だという可能性があるかもしれないのに、供もつけず、
一人で茶会の会場に行ってしまったのだ。ヒュッレムのこととなると、もしかしたら
自分の立場も忘れてしまうのかもしれない。ラムセスはそう思った。
「ラムセスじゃないか、どうした?」
 イブラヒムはセピアの馬と一緒にいるラムセスに気付いた。
「お一人で外出は危ないですよ」
「わざわざ追ってきたのか……。メフメトが追うように言ったのか?」
 ラムセスは頷く。
「この茶会、何事もなかったみたいでよかったな」
「そうだな、じゃあ帰るか。ラムセス、馬に乗れるのか?」
 イブラヒムは、ラムセスとセピアの馬を見た。
「当たり前ですよ。馬に乗ることは何千年も前からの嗜みですよ」
「そうか、そうだな」
 イブラヒムは頷いた。二人で馬を並べてアルヴィーゼとメフメトが心配する屋敷に向かった。
 途中、金角湾が見えた。ボスボラス海峡は今日もたくさんの船が行き交っている。
ボスボラス海峡からの風が、ラムセスとイブラヒムの髪を揺らす。この風が、イブラヒムにとって
どのような風向きになるのか、今はまだ予測はできない。



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