夢の雫、薔薇色の烏龍
(ゆめのしずく、ばらいろのウーロン)


4.ボスボラス海峡

 翌日。早速、メフメトと勉強の時間になった。
「イブラヒムって一体何者なんだ? 相当位が高そうだな」
「……ラムセス。あなたは今雇われている身です。ご本人がいないときでもイブラヒム様と
お呼び下さい」
「おう、わかった」
「オスマン語よりも、まず身の回りのことから説明したほうがいいですね」
「おう、何でもいいから教えてくれ!」
 ラムセスは元気だ。メフメトは溜息をつく。
 オスマン帝国は、スルタンと呼ばれる王がいること。今、そのスルタンはスレイマンという人物であること。
イブラヒムはスレイマンの寵臣であり、つい最近、ヒュッレムという女奴隷を献上したことなどを聞いた。
 オスマン帝国は、身分に関係なく、能力がありスルタンに認められればどんどん出世ができる帝国だと聞いた。
ラムセスのいる古代エジプトでは身分が第一。貴族でなけれな出世は望めない。
この国では能力があれば宰相、いわゆる大臣になることもできるというのだ。なんと魅力的なんだろうと思った。
現にイブラヒムも奴隷出身だと聞いて驚いた。
 スルタンがいる宮殿は旧宮殿(エキスサライ)と新宮殿(イェニサライ)に分かれていて、
新宮殿が歴代スルタンの住居があり、国政の中心的場所だと聞いた。
旧宮殿には主に後宮(ハレム)があり、スルタン以外の男性は宦官しか入れないのだという。
シャフィークは白人宦官で、側室であるヒュッレムに使えていていると聞き、だいぶ驚いた。
イブラヒムは宦官ではないが、スルタンの特別な許しを経てハレムに入れるらしい。
 ラムセスはメフメトについてどんどん知識を吸収していった。数週間すると、オスマンの世界の習慣も
身についてきた。
「オスマン語はだいぶできるようになりましたね。しかし驚きました」
「何がだ?」
「ラムセスはファラオ……いえ、今は違うけど、元の世界では貴族なんでしょ。
なのにすごく素直ですよね。もっと横柄な態度で教えにくいかなって思ってたんですけど、
学ぶ姿勢がとっても素直で驚きました」
 メフメトがラムセスに笑顔を向ける。
「教わっている身分で変な見栄張っても仕方ないからな。俺は教わっている時間なんて、
ほんの一瞬だと思ってる。教わるより、教えるほうがずっと難しいんだ。今は知識を吸収することが第一優先だ」
「なるほど」
 メフメトは感心したように頷く。
「メフメトの教え方も上手いと思うぞ。どんどん興味が出てくるぞ!」
 ラムセスは肘でメフメトをつついた。メフメトは嬉しそうによける。
「ほんとですか! 嬉しいなぁ〜」
「おう! 本当だ」
「そうだ、ラムセス。これからグランド・バザールに行ってみませんか?」
「ばざーる?」
 ラムセスは首をかしげる。
「色々なものが売っている商店街みたいなものです。バザールのコーヒーショップで
コーヒーでも飲みましょ。おごりますよ」
「こおひい? よくわからんが行こう!」


 宮殿から歩いて10分。
 グランド・バザールと呼ばれるいくつもの店が並ぶ市場のような場所に来た。
バザールに一歩足を踏み入れると、オッドアイに金銀のまぶしさが映った。
金は2000年たったこの時代でも貴重品のようだ。バザールの入口には金を扱った店が目立った。
「ここはイスタンブルの商業の中心です。食料品、お茶、金銀や宝石、日用品まで
どんなものでも揃います」
 メフメトが説明する。商店の数も多かったが、それよりも人の数に驚いた。
老若男女、オスマンの人だけでなく、様々な人種の人々がバザールには溢れていたのだ。
「外国からの商人も多く来ています。エジプトはもちろん、アラブ地方、インドや東方からの商人もいますよ。
珍しいものも手に入りますから、もし給金が入ったら来てみると面白いですよ」
 ラムセスは行き交う人々と店をを眺めるだけで胸がいっぱいであった。
やはり未来。全然違うと感じたのだ。
「じゃあ、ラムセス。いきつけのコーヒーショップにでも行きましょうか。コーヒーおごりますね」
「ああ」
 ラムセスは迷路のようなバザールの道をメフメトについていった。


 目の前に黒い液体の入ったカップが二つ並ぶ。
ラムセスはオッドアイを細くしてコーヒーと呼ばれる黒い液体を見つめる。
コーヒーショップと呼ばれるこの店では、みんなこの黒い液体をすすっている。
古代人、ラムセスにはなんとも奇妙な光景であった。
「これ……、飲むのか?」
 ラムセスはコーヒーを指さす。
「もちろんです」
「これ、毒とか入っていないか?」
「そんなわけないでしょう」
 さらりとメフメトが答える。メフメトはそうっとカップに口をつける。おいしそうにコーヒーをすする。
ラムセスはカップに鼻を近づけて匂いをかぐ。焦げたような香ばしい匂いがする。
せっかくメフメトがおごってくれたんだ。飲まないわけにいかない。それにこれもオスマンのたしなみだ。
これからしばらく(だと思いたい)、この世界で暮らしていく礼儀だ。
 そう思い、カップに口をつけると一気にコーヒーを飲み干した。
「ぐえええええ」
 ラムセスはコーヒーを吐き出す。
「苦い〜、粉っぽい〜」
「ラムセス、なんて飲み方してるんです!」
 メフメトは驚いて立ち上がる。
「なんだこれは! まずいぞ!」
 ラムセスは驚いてオッドアイを大きく見開く。
「下に粉が沈んでいるので、上澄みを静かにすするんです。一気に飲んではダメです。
初めてだと口には合わないと思っていましたが、まさか一気に飲むと思わなかった」
 メフメトは反省するように言った。
「みんな、よくこんなもの飲めるな」
 ラムセスは辺りを見回す。コーヒーショップにいるお客もラムセスを好奇の目で見ている。
吐き出したコーヒーでラムセスの服が黒く汚れていた。
「帰ってコーヒーを飲む練習をしましょうか」
「ああ、ごめんな、メフメト」
 ラムセスは素直に謝った。
「メフメト、どこいくんだ? 宮殿はこっちの道だろう」
 メフメトは宮殿へ行く道とは違う方へ向かっていた。
「ええ、ついでだから、ちょっと海でも見ていきませんが? ボスボラス海峡がすぐ見えますよ」
「ぼすぼらす!」
 ラムセスはそう呟きながらメフメトの後をついていった。
「さあ、ここが金角湾。ボスボラス海峡です。きれいでしょう!」
 ラムセスの目の前に海が広がった。遠くに地平線も見える。空気もなんだか澄んでいるような気がした。
冷たい空気がラムセスの気管に気持ちよく入っていくのを感じた。



「……エジプトはこの向こうか?」
「いえ、向こうはアジア側です。エジプトはこっちですね」
 メフメトは立っている場所より南側を指す。
 ラムセスは鼻をすすった。視界も少しぼやけた。
「そうか、なんだか海を見たら泣けてきた。……海、きれいだな」
 数分の沈黙の後、メフメトが小さな声で「行きましょうか」と言った。
背中でその言葉を聞いたラムセスは、静かにメフメトの後を着いていく。
 宮殿に近づいたところで、二人は仕事帰りのイブラヒムと会った。
ラムセスのコーヒーで汚れた服を見てイブラヒムは苦笑いを向けた。



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