ANATORIA食堂

第一部
1.ひとり
2.ANATORIA食堂
3.天丼
4.ナキアの腹黒丼
5.薔薇ムセスのマグロ丼



1.ひとり

 きっかけはほんの些細なことだった。

「エリカ、私たちのグループから出て」
 そう言ったのはグループの中でも中心的存在で、わりと物事をはきはき言うよしのだった。
 話があるから……と、放課後の教室に残され、誰もいなくなったところで
鼓膜に打ち付けられた言葉だった。
 エリカは硬直した。突然の言葉に、冷たく冷えた釘を心臓にグサリと
刺されたような衝撃が走った。刺された心臓からはショックという名の血液が流れ出していたが、
「ああ、やっぱり」という組織液も一緒に混ざっていた。
 教室には、エリカとよしの以外にはもちろん誰もいない。校庭で、ソフト部が練習している声が
微かに聞こえるだけだった。2人の間にしばらくの間、緊迫という糸で繋がった沈黙が流れる。
その糸を切ったのはエリカだった。
「どうして……」
 聞いても結果は変わらないとわかりきっていたが、一応よしのに尋ねた。
「忍がね、エリカのこと嫌なんだって。大人しそうにして自分の意見も殆ど言わないで、
いつもうんうん頷いているばかりで……そういう人まねみたいな態度が気に障るって……」
 忍というのは、エリカがいる(いや、いた)グループの中でリーダー格の人物だ。
勉強がすごくできるわけでも、容姿が際立っていいわけではないが、
積極的で、思ったことをポンポン言えるクラスでもかなり目立った存在だった。
性格はキツイところがあるが、人前で話すのも上手で、面倒な委員や係りの決め事も
忍が斡旋すると揉めることなくすんなりと決まってしまった。簡単に決まってしまうのは、
忍に言われたら断れない。嫌われると怖い……という思いもあるに違いないが、
みんなあえてそのことを口にしないのは、押し付けてばかりではなく、みんなをまとめる面倒な仕事も、
そこそこ引き受けてくれるから言う必要なかったのである。
良く言えばみんなのまとめ役、悪くいえば目立ちたがり屋の人物だ。
 エリカはその忍からダメだしを食らってしまった。エリカが属していたのは、
忍を筆頭に6人ほどのグループ。もっと人数の多いグループは他にあったが、
クラスでもリーダー格の忍やよしのがいたため、存在感の大きいグループであった。
 女の子はよく群れをなす。グループ化して行動する生き物なのだ。
小、中学校のときもグループはあったが、エリカの入学した高校が女子校のせいか、
群れを為す傾向が強いように思えた。グループに属さないと、なんだか生きていけない
雰囲気が教室には満たされていた。
 エリカは高校に入学してすぐ、菜種(なたね)という笑うと頬のえくぼのかわいい
気のよさそうな子と仲良くなった。話もあうし、一緒にいて楽しかった。会話のキャッチボールも
心地よくできる周波数が同じ人物だった。菜種もエリカのことをそう思ってくれたらしい。
一緒に話していると、楽しそうであった。
 いつもニコニコ、笑顔のかわいい菜種は、しばらくすると忍のグループに
吸い込まれた。本当に、吸い込まれたという表現が的確でふさわしかった。
菜種は、エリカよりも外交的であったし、ずっと愛想もよく気立てもよかったため、忍に気に入られたのだ。
菜種が忍のグループに入るのと一緒にエリカも入ることになってしまった。
どこかに属さなきゃいけないような雰囲気があったから、菜種と一緒にグループに
加われたのは良かったのかもしれない。エリカはこのときそう思った。
 他にもクラスにはいくつかのグループがあった。
グループなんかに属したくない、という一匹オオカミを演じる人も何人かいたが、
その一匹オオカミ同士で集まっているから、これも一つのグループといえよう。
政党に例えると無所属の会ということなのかもしれない。
 女子校というものは、こういう組織の中で生きてゆかねばならないのか。
グループ−組織化というものが、高校に入学した当初は異様なものに思えたが、
一人ではやっていけない。それに同じ系統の仲間同士で同調してたほうが楽なことは確かだった。
それこそ、クラスという村の中で八分にされたら学校生活を切り盛りしてゆけないという感じだった。
 ――その八分にエリカはあってしまった。よりによって、一番マズイ人物から。
忍に嫌われたとあっては、クラスの中でもやっていきにくくなるだろう。
 よしのは、何も言わないエリカを気の毒そうに見つめていた。気の毒という同情の
視線と一緒に、人を蔑むような見下した視線も発射していることがわかった。
「忍はね……エリカを見てるとイライラするんだって。もう一緒にいたくないって……
そう言ってたの」
 いつも忍と一緒にいるよしの。忍までとはいかないが、
はきはき元気な少女だ。たえず忍と行動を共にし、気があっているように見えた。
忍とよしのはよく言えば仲良しコンビ。でも悪く言ってしまうと、
よしのは忍に使われている手下のようにも思えた。忍のほうが
いつも一歩も二歩も先に出ていたし、よしのもボスを立てるように同じく一歩二歩引いていた。
現に今だって、忍の命令で「ゲループを出ろ」なんて言いに来ているのだ。
 よしのはそのまま言葉を続ける。
「席替えの件だって、咲良たちより、忍に譲るべきだったでしょう」
 ――やっぱり。原因は席替えか。
 先日クラスの中で席替えがあったのだ。席替えはオーソドックスなくじ引き。
時の運でサラリと席が決まりそうだが、実際はそうではない。
くじを引き終わった後、仲の良い者同士で固まりたいがゆえ、席の交換会が始まる。
大人しいエリカは、席交換の格好の餌食とであった。
他グループの咲良から、くじ引きで決まったエリカの廊下側の一番後ろの席と
窓側の席に替わってもらえるよう頼まれた。エリカは別に授業を受ける
席なんてどこでもよかったから、即座にYESと咲良に返事をした。
 ところが、後から、忍が席を替わってほしいと言い出したのだ。
「もう、咲良と替わってしまった」と小さな声で言うと、「どうして席を替えるとき
私に相談しかなったの!」と、声のトーンを高くして叫ばれた。
 それから、エリカは忍が何気なく避けているのはうすうす感じていた。
最初から引っ込み思案の自分のようなタイプのことはあまりよく思っていなかったことは
感じていた。しかし、菜種のことは気に入っていたので、オマケでついてきた自分も置いて
やっているという雰囲気はあるような気もした。菜種がエリカのことを信頼していたので、
いくら気の強い忍と云えど、波風たてて追い出すわけにはいかなかったのだ。
 引っ込み思案の自分のようなタイプが、忍のようなクラスのボス的存在のグループにいたのは、
異色だったのかもしれない。エリカは後日そう思った。
 エリカは、席替えで忍のことを第一に考えなかったため、ご機嫌を損ねてしまったらしい。
まるで女王様のご機嫌を損ねるように。席替えがきっかけで、
今までのエリカをよく思っていなかった気持ちがすべて出てしまったのだろう。
きっと何を言っても、もはや無駄である。八分への道は避けられない。
忍女王の取り仕切るクラスという帝国からつまはじきにされることは容易に想像できた。
 ただ、エリカには一つだけ気になることがあった。
「出るのはかまわないけど、菜種は……菜種は何て言ってるの?」
「菜種にはまだ話してないよ。これから話す。とにかくエリカには悪いけど、
忍がもう耐えられないって……見てるとイライラしてじれったいって……」
 よしのから発せられる言葉の一つ一つが皮膚の毛穴をこじ開けるように
鋭く食い込んでゆく。忍が、忍が……まるで忍がすべて言ってるように
思えるけど、本当はよしのがそう思ってるんじゃないの? 
忍の殻をかぶったよしのは、忍のふりをして自分の意見も一緒に言う。
最も、二人はそうやって均衡が取れているから、いいのかもしれないけど……。
 なんだか、自分と同じ年数しか生きていない同学年の女の子に言われてると思うと悔しかった。
悔しかったけど、グループから追い出されて、これからどうしようという思いのほうが
エリカの心を大きく占めていた。
「忍もそうだけど、グループのみんなもエリカのことは嫌だって。
これからは……必要最低限のこと意外は話し掛けてこないで。
お昼も……一緒にはいたくないから……」
 頭の片隅で泣いちゃダメ、泣いちゃダメと、制御がかかっていたが、もう限界だった。
次の瞬間、瞳から涙が溢れた。大粒の涙は頬を伝わり床に落ちていった。
粒状の涙を流したなんて何年ぶりだろう。自分はこんなにたくさんの涙を流せるものなのだ。
エリカはショックの中にいながらも、泣いている自分をしっかり認識していた。
「泣いたって……仕方ないんだから……。とにかく私は伝えたからね」
 よしのは逃げるようにして教室を出た。
 制服のポケットからハンカチを出して、とりあえず顔を塗らした涙を拭った。
鼻水も垂れてきていたので、鞄からポケットテッシュを出して風邪も引いてないのに
何度も鼻をかんだ。
 学校には殆ど生徒はいないようであった。校庭でソフト部が練習している声が
聞こえた。いつも聞こえる声より遠いような気がする。きっと何度も鼻を
かんだことによって、耳もボンヤリしてきているからであろう。
 涙がひとおおり治まったところで、家に帰ることにした。
 上履きを履き替えてソフト部が部活をやっている横を通るとき、なるだけ顔を見られないよう、
うつむいて小走りした。
 通学の電車の中では、泣かないようがんばるのが大変だった。
下校ラッシュの時間は外れていたので、同じ制服の人がいなかったのは幸いだった。
泣いている自分は見られたくなかった。会社帰りのOLやサラリーマンがポツポツといた。
通学と通勤ラッシュの合間の時間だったらしく、電車の中では座れた。
 よしのに言われた言葉を思い出さないよう、なるだけ無心で、何も考えずに
いようと思った。それでもまだ涙が乾いていなかったので、鞄を抱きかかえて、
その中に顔を埋めた。電車に乗っている人から見ると、きっと疲れた学生が
うな垂れて眠っているようにしか見えないであろう。
じっと涙をこらえていると、電車のガタンゴトンという音が、意味もなく心にしみた。
 家に帰って、泣いたことは親に悟られないよう、静かに二階の自分の部屋にあがった。
学校で散々泣いたけど、考えるとまたすぐに瞳が潤んだ。
鏡を見ると、いつもより目も腫れぼったい。声も鼻声だった。「アー、アー」と
小さく声を出してみると、頭の中で響いていつもより鈍い声が頭の中に反響した。
「エリカ、ご飯はどうするのー」
 一階から母の声がした。とてもじゃないが見せられる顔じゃなかったので、
「まだいい。眠いから寝るー」
 と、鼻声がばれないようにいつもよりちょっとトーンを上げて言った。
 今はご飯なんて食べる気はしない。おなかがすいたら、親たちが寝静まった後に
何かつまもう。とにかく寝たふりをしてしまえ。
 エリカはパジャマに着替えて、ベッドに横になった。
 ――グループを出る。菜種は……菜種はどう思っているのだろう。
 心臓がいつもより強く拍動しているような気がした。毛布の中でドンドンと強く脈打っている。
 菜種も、忍やよしのと同じく、自分を嫌っているのだろうか? いいや、そんなことはない。
菜種だけは私のことわかってくれている。信じているつもりだけど、
忍と自分を天秤にかけたらどうだろう。クラスの中でも忍は大きな存在だ。
忍グループから八分にされた自分に菜種は接してくれるだろうか。
そのままグループの組織というものに、流されてしまうのではないか。
 菜種に、今日よしのに言われたことを相談しようか……携帯を手に取ってみた。
だけど、怖くて通話ボタンを押すことができなかった。
菜種に電話しても、しなくても明日学校に行けばわかる。電話したことで安心を
得られればいいが、そうでなかったときのことを思うと……これ以上のショックは受けたくない。
 菜種がどういう行動をとるか、なんとなく想像がつく。
グループを追い出された私になんて誰も味方してくれないだろう。
話しかけてもシカトされるかもしれない。私なんて、ちっぽけな存在だ。
一人じゃ何もできない……そう思うとまだ涙が出てきた。


***

 次の日、昨晩ベッドで思ったとおりの教室だった。
女同士の情報は早く、クラスのボス忍に八分にされたエリカには、誰も話し掛けてこなかった。
もちろん菜種も。エリカのほうを見て何度も気にしていたようであったが、
忍やよしのと一緒にいた。
 休み時間ってこんなにザワザワしたものだったのか。エリカは一人になって
はじめてそう気づいた。いつもだったら、菜種のいる輪の中に自分もいた。
あまり発言はしなかったが、うんうんとみんなの話に相槌を打っていた。
羨ましいとは思わない。ただ、休み時間のザワザワ感が、ざらついた舌で脳を
舐め回されるかのように嫌だった。いつもだったら、休み時間は気が抜ける時間なのに、
居心地が悪かった。ずっと授業中のほうがみんな一人で楽に思えた。
 問題のお昼休み。クラス内はグループごとに机を囲む。忍のグループは5つの机を
固めた。6つ目がエリカの机だ。もちろん、エリカと一緒に食事を
とるつもりなんてない。エリカの存在など、全くの無視であった。
 すると、視線を感じた。菜種がエリカをじっと見つめていたのだ。
何かを目で訴えようとしているのがわかった。
「菜種、手洗いに行くよ」
 忍が菜種の腕をつかんで、遮断した。
 一人で食すお弁当はなんともおいしくないものであった。
一つ一つ味はついているはずなのに、全く味覚は感じられなかった。
忍のグループは全くの無視で、他のグループの子たちも、エリカのほうを見て
ひそひそ囁いているのがわかった。気持ちの動揺からか、心臓がちぐはぐに動いているような気がした。
 こんな昼食ははじめてだった。小、中学と、おとなしい性格からか、
ときたまからかわれることはあったが、お昼を一人で食べた経験なんてない。
たえず何人かの仲間がいた。それなりに過ごしてきたのだ。
 なのに今の状況は何なのだろう。自分はこんな一人にならなきゃいけない
性格だったのか。深く考えるとまた涙が出そうだったので考えるのをやめた。
 その次の日も状況は変わらなかった。菜種はチラチラと自分のことを
気にしてはいるが、話かけてはこなかった。忍たちが菜種をしっかりと捕まえ、
話し掛けさせないと言ったほうがいいかもしれない。
 授業中や、休み時間は一人でも平気だとしても、お昼休みだけは耐えられなかった。
教室で一人で食すよりも、他のクラスの友達のところへ行くか、
誰もいないところで一人で食べるほうがまだましだった。
 エリカはお昼休みになると、お弁当を持って教室を出た。他のクラスの友達の
ところへも行こうと思ったが、それもなんとなくやめた。
 校舎の裏に日当たりの良い場所があって、殆ど人の来ないベンチがあったから、
そこに行こうと思った。あの教室のザワザワ感に圧倒されることもなく、
のんびり食べるほうがいい。お弁当を左手に校舎の裏へ向かった。
 季節はすっかり日差しの弱くなった10月。真夏の照りつけるような太陽と違って、
エリカにやさしい光を与えていた。目に眩しいほどの緑は徐々に薄くなりはじめていて、
信号が緑から黄色に変わるように木々たちもしだいに色をかえていた。
 校舎裏の誰もこない場所。 
 寂しくないといったら嘘になるが、気分は晴れ晴れしていた。開放感もあった。
教室にいるときより、お弁当はおいしく感じられた。
 お弁当が殆ど食べ終わったところで、まだ緑色の抜けない木々の向こうにある看板が目に入った。
『ANATORIA食堂』と書いてある。決して新しいとは言えない、
雨や風で風化の激しい看板だった。しかし、営業中と札がかかっていた。
 まだお昼休みは20分以上ある。ここにいても何もすることはないし、誰も喋る人もいない。
裏門はいつでも出入り自由で、簡単に抜け出すことができる。
 行ってみようか。行ったところで、「学生さんは出入り禁止です」と
言われるかもしれないが、そのときはそのときだ。エリカはポケットの中の小銭入れを確認して、空になったお弁当箱を
持って、裏門を抜け出した。


2ANATORIA食堂

 ANATORIA食堂。
 壁は茶色い砂吹きで、木で出来た扉には、ツタンカーメンのマスクが貼りついていた。
ツタンカーメンは、制服姿のエリカを表情のない瞳で見つめている。
「すみません……」
 そっと木戸を開けた。ツタンカーメンのマスクがついているせいか、
妙に重い。顔だけ出して、店の中の様子を伺った。
 古そうな外観と違って、中は結構綺麗だった。
床は板張りで、建物の老朽が感じられたが、掃除が行き届いているのか、
埃は落ちていなかった。金ぴかのテーブルの上には真っ赤な薔薇の花が
一輪ずつ飾ってあって、豪華さをかもしだしていた。
壁には綺麗に彫刻が彫ってあった。古代の壁画のような彫刻で、
以前テレビで見た、古代エジプト王のお墓に彫ってある彫刻にそっくりだった。
W稲田の某教授の影響で、今はエジプトブームらしいから、
きっとその影響のお店なのだろうとエリカは思った。
そういえば、お店の名前はANATORIA食堂だった。アナトリアって、中東の方のことを
さすんじゃなかったっけ? だからこのお店は古代チックなのだ。そう勝手に解釈した。
 他にも写真が何枚も飾ってあった。川の写真も数枚あって、その一つが
薄い赤色をしているのが印象的だった。それよりももっと印象的だったのが、
中にいたお店の人だった。なんと日本人じゃなかったのだ。
金色の髪に褐色の肌を持った外国人。それも上半身裸だった。
 エリカは露出狂の男を見てヤバイ店に入った! と悟ったが、「開いてるよ」と、
言われ、店の中に入ってしまった。
「おじょうちゃん、何にする?」
 金髪の外国人を改めて見つめた。瞳の色が左右違った。髪と同じ金色と、
肌の色に近いセピア色の瞳だった。確かこういう瞳をオッドアイというのだ。
猫では何度か見たことがあったが、人間では初めてだった。
それによく見るとカッコイイ。ハリウッドスターにしてもいいくらい。
英会話の外国人の先生もカッコよくてみんなの評判だが、その先生と同じくらい、
いや、もしかしたらもっとカッコイイかもしれない。
 鼻もすっと高く、瞳もきれい。背も高いし、腹筋も割れていて体には無駄な肉ついていなかった。
金髪がパラリとかかるうなじもセクシーだ。それに日本語も流暢だ。言葉によどみがない。
思わず見とれてしまったエリカだが、エジプト風な妖しい店で
何を頼んだらよいかわからなかった。
「あの……私、学生で……あんまりお金持ってないんです……。
それにお昼はもう食べちゃったし」
「まあ、そう固いこと言うなって。ケーキくらい入るだろう。
今日はサービスでケーキセットをおごってやろう。ANATORIA食堂お手製の
タワナアンナケーキセットだ。ほら、食べてみな。今、茶も入れてやるからな!」
 エリカの前にケーキが出された。薄い紫色のケーキだった。
アップルパイのアップルを紫色にしたものが表面に乗っかっていた。
まさか毒は入っていまい……そう思い、フォークでケーキをつついた。
紫色をしていたので、てっきりブルーベリーのケーキかと思ったが、違う味がした。
「あの……これなんのケーキですか? タワナアンナケーキって……」
「なつめのはちみつ漬けケーキだよ。甘くておいしいだろう」
 オッドアイから笑みがこぼれた。
「なつめ?」
「そう、なつめやし。しらないかい? こっちではヤシの木って言えばわかるかな?」
「ヤシの木? ヤシの木って食べられるの?」
「食べられるのは木じゃなくて、実のほうだよ。はちみつ漬けにしてあるから、
おいしいだろう」
「なつめやし……う〜ん、干し柿みたい……」
「干し柿か。まあ、似てるな。干し柿きらいかい?」
「いいえ、嫌いじゃありません」
 エリカは次々とケーキを口に運んだ。金髪のおにいさんが言ったとおり、
甘くておいしかった。なんだか、なつめやしの甘さが心にしみた。
教室にいるときの緊張感が、ケーキの甘さにほぐれるような気がした。
学校に来て、人と話すことがあまりなかったから安心した気持ちもあったのかもしれない。
「はい、お茶。ローズティだよ」
 薔薇のワンポイントのある白いティーカップに赤茶色の紅茶が入っていた。
「いいにおい……」
 カップに口をつけると、紅茶と一緒に薔薇の高貴な香りがした。あったかくって
おいしかった。
 カップを置くと、テーブルにひかれたランチョンマットが気になった。
絵文字みたいな模様が描かれている。人の形をしたものや、鳥、羽、ヘビなど
周期性があるような絵文字が描かれていた。
「このランチョンマット……古代の文字でしたっけ? ヒエロ……なんとかっていう」
「ヒエログリフ。古代エジプトの文字だよ。模様にするといい模様だろう。
隣のランチョンマットは楔形文字だ」
 露出狂の男はエリカに隣のマットを見せた。細長い三角模様や棒状の記号が羅列してある
ランチョンマットだった。
「このお店って、古代のものを集めたお店なんですか? 入り口の扉にもツタンカーメン
があったし……」
 エリカは店を見回しながら言った。
「まあ、そんなところだな。それよりもうすぐ1時だよ。学校に戻らなくていいのかい?」
「え、嘘っ! 早く戻らなきゃ。お金、ケーキっていくらですか?」
「いいよ。おごりだって言っただろう。サービスさ」
「でも……」
「また来てくれればいいさ。名前だけ聞いておこう。女学生、名前は?」
「エリカです」
「そうか、エリカか。俺はラムセス。ANATORIA食堂の店主さ!」
「ラムセスさん、ごちそうさまでした。また来ますね!」
「お弁当箱、忘れ物さ!」
 ラムセスは空のお弁当箱を投げた。振り向いたエリカはちょうどよくキャッチする。
「すみません!」
 かるく会釈すると、オッドアイがにこやかに笑った。
 エリカは重いツタンカーメンのドアを開けて裏門に戻っていった。


 家に帰ってエリカはANATORIA食堂で食べたなつめやしについて調べてみた。
 なつめやしはペルシア湾沿岸のメソポタミヤ地方原産の果実で、
中近東や北アフリカではなくてはならない果実だと、百科事典に書いてあった。
ミネラルや食物繊維を含んでいて、日本では生ではなく乾燥させたものが
売られているという。ラムセスというオッドアイの店主は、なつめやしのケーキを
「タワナアンナケーキ」と、呼んでいた。タワナアンナなんて単語、今まで聞いたことない。
エリカは続けて百科事典でタワナアンナと引いて見たが、載っていなかった。
なつめやしに何か関係することかと思い、調べてみたが、手がかりに
なる事は何も書いていなかった。
 明日もANATORIA食堂に食べに行こうと思い、母親に
「明日からお弁当は作らなくていい。外で食べるから」と言った。
外で食べると聞いて、母はあまりいい顔をしなかった。
お弁当のほうが経済的でお金がかからないからだ。
「別にかまわないけど、お昼代としてのお金は余分に渡さないわよ」
 ツンとして言い返されたが、忍たちから八分を食らって以来、帰りがけに
マックやケンタによってお茶することもなくなったから、そのお金を
お昼代に回せるから、全く平気だった。
 またあの楽しくかっこいいオッドアイのおにーさんに会える。
学校に行って忍たちの顔を見るのは嫌だったが、お昼は教室で一人じゃないと
思うと、少し、ほんの少し気が楽になった。




3.天丼

 翌日。お昼の時間になるや否や、エリカは教室を飛び出した。
もちろん、向かう先は昨日のANATORIA食堂。今日もやっているだろうか?
ラムセスというおにーさんはいるだろうか?
 エリカは心臓の鼓動を少し早くさせながら裏門へ向かった。
 昨日と同じく、営業中の札がツタンカーメンのドアにかかっていた。
「こんにちは」
「いらっしゃい、エリカ」
 ドアから顔を出すと、オッドアイの男がグラスを拭きながらにこやかに笑っていた。
「昨日はケーキご馳走さまでした。今日はちゃんとお昼を食べに来ました」
「嬉しいねェ。お昼は日替わりランチしかやってないけど、それでもいいかい?」
「はい、もちろんです!」
 エリカは昨日と同じ席に座ると、日替わりランチのメニュー表が目に入った。


 本日の日替わりランチ 『天丼』 400円




 と、書いてあった。
「今日は天丼なんですね。私、天丼大好きなんです!」
「天丼じゃないよ」
「え?」
「天丼―『てんどん』じゃなくて、『そらどん』と読むんだ。天というのはいわゆる空だろう」
「はァ」
 エリカは生返事を返す。褐色の肌にオッドアイを持つ外国人なのに、
ややこしい名前をつけると思った。
「今すぐ、そらどん、作ってやるから待ってな!」
 ラムセスは金色の方の瞳をつぶってウインクした。
 10分ほどして、エリカの前に蓋のついたどんぶりが出された。味噌汁もついている。
ちなみに赤味噌であった。
「さあ、どうぞ召し上がれ」
「い、いただきます」
 エリカはそうっと丼の蓋をあけた。
 中は普通の『てんどん』だった。エビのてんぷらが2本、シイタケとさつまいもと
シシトウのてんぷらが一つずつご飯の上に乗っかっていた。ご飯は玄米らしく、
少々茶色みがかってはいたが……。
「これって……普通の天丼と同じじゃないんですか?」
 エリカは蓋を持ったまま、ラムセスの顔を見上げた。
 ラムセスは今度はセピアの方の瞳をつぶり、チチチッと人差し指を顔の前で
左右させながら口を鳴らした。
「これは『そらどん』だ。普通の天丼と違って乗っているてんぷらにきちんと
意味があるんだ。どんぶりの中は一つの国を現す。エビは2本だが、一本はもう一本より
少し小さめだろう。大きいほうが皇帝で小さいほうが皇妃だ。シイタケが皇帝付きの
側近、かぼちゃが皇妃付きの女官を現す。ピリリと辛いシシトウは書記だ」
「はァ」
「皇帝とその妃は側近たちに支えられ、たくさんの民衆を統治し、
その民衆によって支えられている。ご飯が民衆だ。大地を支配すると
いう意味から玄米は砂のイメージも重なっているけどな」
 ラムセスは得意げにエリカに説明した。急に皇帝、皇妃、民衆と説明されても
ついていけず、相変わらず蓋を持ったままポカンとしていた。
「蓋の裏側を見てみろ」
 そう言われ、手にもった天丼の蓋に目を移した。
蓋の裏には空の絵がかいてあった。真っ青な空にゆらゆらと雲が浮かぶ空の絵。
もっとも、てんぷらとご飯の湯気で空は水蒸気が満たされていたが。
「空の絵だ!」
「そう、だから『そらどん』なのだ」
「ふーん」
 納得できるようなできないような複雑な心境で、エリカは天丼に箸をつけた。
てんぷらがカラっとあがってて、ご飯もほくほくでおいしい。
 食べ終わると、昨日食べたなつめやしのケーキについてラムセスに訊ねた。
タワナアンナというのはどういう意味なのか聞いたのだ。
「ああ、タワナアンナというのは、昔あったとある国の皇妃の呼び名だよ。
皇帝のことはタバルナと言うんだ」
「タワナアンナにタバルナ。聞いたことないなァ。昔ってどのくらい昔?江戸時代くらい?」
「もうちょっと昔かな」
 ラムセスは吹き出しながら答えた。エリカの言葉が相当おかしかったらしい。
何故笑われているのか意味がわからなかったが、別に嫌な気持ちにはならなかった。
「そういえば……お昼なのにお客さんは来ないんですか?
私だけみたいなんですけれど……」
 店を見回して言った。昨日も今日も客はエリカしかいない。
ケーキも天丼もおいしいし、お昼どきなのにお客は自分しかいないなんておかしいと思った。
「俺は趣味でこの店をやっているから、客なんてたくさんこなくてもいいのさ。
また明日も来てくれよ!」
「はい、ごちそうさまでした。『そらどん』おいしかったです。
また明日も来ますね」
 エリカはラムセスに400円を払って学校に戻った。



 次の日も、そのまた次の日も、お昼になると裏門を抜け出しANATORIA食堂に行った。
ラムセスは快くエリカを迎えてくれた。日替わりランチで、毎日違う
お昼を楽しめた。値段も400円。安いしおいしいし、それに何といっても
かっこいいオッドアイのおにーさんとお話ができる。
 今やクラスの中で友達を失ったエリカにとっては、ANATORIA食堂が現在の心の支えでもあった。
 400円で色々なものを食べさせてくれて、その上、それぞれのランチには『天丼』のように
何かしら由来のようなものがあった。
 3回目に行った時には、『赤い河ランチ』というランチが出た。
ケチャップごはんとナポリタンとサラダのランチだった。
ナポリタンは一本一本、お皿を横断するように長く伸びていた。
河をイメージしているらしい。ナポリタンの河の両脇にケチャップごはんが盛ってあって、
その周りをサラダが取り囲んでいた。
 ラムセスの説明によると、ランチ名の赤い河というのは、トルコ内陸部を流れる河で
赤い色をしているという。本来は普通の河と同じく水色をしているそうだが、
両岸にある赤い土が河に溶け出して、水を赤く染めているのだそうだ。
「赤い河なんて、血みたいで気持ち悪そう」思わずエリカは本音を言ってしまったが、
ラムセスは笑って「そんなことはないよ」と優しく返事を返した。
 他にもキックリの2色丼(これはキックリという2人の妻を持つ人が、妻たちが
喧嘩しないよう、卵とひき肉のそぼろを作るように命じた丼だという)、
コテコテミッタンラーメン(豚骨のダシが効いた脂たっぷりのコテコテラーメンだった)、
イル=バーニの真面目御膳(カロリー計算がしっかり為された健康的な和食だった)、
アレキサンドラのお子様ランチ(ハンバークや卵焼きのかわいいお子様ランチだった)
など日替わりメニューで色々楽しくおいしく食べることができた。
 食後のデザートも出してくれた。三角錐の形をしたピラミッドゼリー、プチピラミッドチョコ、
古代エジプト文字を象ったヒエログリフクッキー、アナトリア地方の文字である楔形文字クッキーなど、
ラムセスの創作菓子は、お店では決して売っていない、珍しいものばかりであった。
 そのうち、エリカは自分の今ある状況についてラムセスに話した。
グループから仲間はずれにされて、仲の良かった友達とも話せなくなってしまったこと、
お昼は居場所がなくて不安なこと、すべてを話したのだ。
「そうなのか、女同士の社会も大変だよな……」
「うん……」
 本日のランチは『ピラミッドランチ』だった。
 ピラミッドを型どったチャーハンが3つお皿に乗っており、
から揚げが3つとサラダがついていた。
 エリカは正四角錐のピラミッドはスプーンでボロボロ崩しながら話した。
「これってイジメなのかなぁ。私イジメられてるのかなぁ」
「八分もシカトも立派なイジメの部類に入るかもしれないが、エリカが
イジメと思えばイジメだし、そうじゃないと思えばそうじゃないんじゃないか?」
 数秒の沈黙、ラムセスのオッドアイから崩れたピラミッドに視線を移す。
「忍たちにはね、嫌われても仕方ないって思うの。でもね、菜種だけは……
菜種だけは少しでも私と話してくれるかなぁと思ってた。味方って言ったら変だけど、
彼女だけは信頼してたの。もし、私と菜種が逆の立場だったら、
私は菜種を放っておけないと思うのに……流されているのか何なのか、
私のことなんか気にもしてくれない。裏切られたんだと思うと、なんだか辛くて……」
 スプーンでピラミッドを崩し終わって、軽く溜息をついた。ラムセスは何も言わない。
「結局、人間って親や兄弟姉妹以外は誰も信じられないのかなぁ。
信頼した私がバカだったのかなぁ。信頼して裏切られるくらいなら、
はじめから信頼なんてしないほうが、傷つかなくて楽なのかもしれないね」
 崩れたピラミッドをスプーンで一口すくって、パクリと口の中に入れた。
涙が出てきそうであったが、ピラミッドのかけらと一緒にゴクンと飲み込んだ。
「エリカ、人を信用しないと、恋愛することもできないぞ。人も好きになれないじゃないか! 
エリカに似合うカッコいい彼氏が側にいたとしても逃げていってしまうぜ」
 ラムセスはやっと口を開いた。
「彼氏なんて……今はそんなこと考える余裕ないよ」
「今は考える余裕がなくとも、いつかはオレみたいにカッコいい彼氏が欲しいだろ。
人を好きになるってことは、ある程度その人を信頼していないと好きにならないよな」
「う……ん、確かに信用できる人じゃないと好きにならないと思うけど……」
「エリカが信用しないと好きにならないと、相手もエリカのことを信用して
好きになってくれないぞ。そんなの寂しいじゃないか! 今は辛いかもしれないけど、
色々な経験重ねて、人を見る目を養うことだな」
「色々な経験って……ラムセスさんは経験豊富そうね」
「そりゃぁ、エジプトは古代四千年の歴史ですから!」
 エリカに向かって金色のほうの瞳をつぶってウインクした。
「でもさ、親友だと思ってた子に裏切られるって、結局、自分が信頼されるまでの
人間じゃなかったってことなのかな。私ってそんなに嫌な奴なのかな。いらない人間なのかなぁ」
 崩れたピラミッドをつつく手を止めて、エリカは再び溜息をついた。
「そんなことないぜ、俺はエリカと話してると楽しいぞ」
 褐色の頬が歪み、ニコリと微笑みかけた。
 ラムセスは大丈夫と言いながら首を立てに軽く振った。
 大丈夫という言葉に、何の根拠もないように思えたが、それでもエリカは
慰められたような気がした。
「ラムセスさんにでも、そう言ってもらうと嬉しいよ。ありがとう」
 エリカは押さえきれなくなった涙を軽く拭いて、ピラミッドの残りを
無理やり口の中に押し込んだ。




4.ナキアの腹黒丼

 ラムセスのANATORIA食堂のおかげでお昼は一人で寂しく過ごすことはなくなった。
 だが、忍たちはだんだんエスカレートしていった。シカト攻撃から、少しづつ
嫌がらせをするようになったのである。
 もともとエリカはあまり運動神経はよいほうではなかったので、
体育は苦手であった。生きていく上で最小限の運動神経は備わっていたが、
少々鈍くさいところもあった。体育でダンスの時間があって、音楽に合わせて踊るのだが、
ステップがおかしいと、忍たちにクスクスと聞こえるように笑われた。
 菜種は笑っていなかった。目を背けているようにも思えた。
 確かにステップは上手くできなかったが、エリカ以外にもできない者はたくさんいた。
忍たちと一緒に他のグループの子たちも笑っていた。
 仲が良さそうだった。自分を笑う者たちはとても楽しそうだと思った。
共通のターゲットを作ることによって親睦を深めているようにも感じた。
バラバラになった心を一つにまとめるには、共通の敵を作るのはよくある手だ。
と、何かで読んだことがあるような気がする。そういえば、まだエリカが
忍のグループにいたとき、忍はエリカよりもっと大人しい子をいじめていた。
エリカほどの無視ではないが、目の敵にしていたのは確かだ。
今その子は忍の眼中にはないようである。
 自分は『ターゲット』になってしまったのか。
 運が悪い? いつまで続く? ターゲットは自分から他の者へ移るときが
あるのだろうか。ターゲットにされるのはつらいが、同じ思いをする者が
絶えずいなければいけないクラスなのだろうか。そう思うと先が真っ暗になった。
 授業が終わって、一人で下校するのはもう慣れた。
 お昼休みはANATORIA食堂に行けるし、休み時間も一人でいることも、
最初は寂しかったけど平気になった。それに、忍のグループ以外の人たちは
全くのシカトというわけではない。隣の席の綾芽など、日常のたわいのない会話程度なら接してくれる。
どこかのグループに属するということはできなかったが……。
 電車に乗って、無心で窓の外を眺めていると、鞄の中でマナーモードにして
あった携帯電話が震えた。鞄のあけて急いで取り出すとメールが来ているようであった。
 忍やよしのはもちろん、よくメールをしていた菜種からもメールは来なかったので
誰だろうとエリカは思った。この時間だと、母親が帰りにスーパーで○○買ってきて! 
とかそういう類のメールかと想像した。
 折りたたみ式の携帯電話を開いて、着信メールを表示した。

『○×◆▽のHP見ました。都内の大学に通う21歳の男です。
僕ならエリカさんのお話相手になれると思います。一度会って下さい』


(な、なにこれっ!)
 エリカは目を見開いた。思わず声に出して叫びそうになったが、
なんとか心の中の叫び声だけに留めた。
 21歳の大学生? 一度会って下さい? 一体どういうこと!
 電車に揺られながらエリカは呆然とする。携帯電話を片手にしばらく呆然とした。
受信相手のメールアドレスを確認した。覚えのないメールアドレスだった。
エリカさんって……どうして私の名前を知っているのだろう。
まるで出会い系サイトからきたメールみたい。○×◆▽のHPって……。
 電車の中では何もできないので、とりあえず携帯電話を折りたたんで
鞄の奥深くにしまった。どうして私の名前とメールアドレス知っているの? 
○×◆▽のHPって一体何なのだろう。知らないHPの名前だ。名前の響きから、
出会い系サイトというところだろうか? なんだか怖い。不安だ。
 そう思っていると、また鞄の中で携帯電話が震えた。
もう一度取り出すと、今度はさっきとは違うメールアドレスで同じような内容のメールが
届いていた。このメールにも○×◆▽のHPという単語があった。
 メールアドレスをどこかに登録されてしまったのだろうか? 家に帰ったらパソコンで
○×◆▽というサイトを検索してみよう。HPの名前だけでひっかかるだろうか?
 エリカは帰路を急いだ。
 家につくと、制服も着替えずにパソコンの電源を立ち上げた。
大手の検索エンジンで『○×◆▽』というHPを検索してみた。
同じ名前のサイトがあった。サイト名をクリックしてみると、やはり男女の出会い系のサイトだった。
投稿欄のページがあったので、いくつかクリックしたみた。
エリカの名前とメールアドレスが載っている投稿文は特に見当たらない。
探している間にも、また携帯メールの着信があった。同様の内容である。
エリカという固有名詞もメールの送信主は知っているようだった。ここのサイトじゃなければ、
どこかに書き込みがあるはず……別のサイトをもう一度検索しようと思い、
ページから出ようとした所で『携帯電話専用ページ』というリンクを見つけた。何気なくクリックしてみた。

10月×日 16時12分
女子校に通う16歳です。名前をエリカといいます。お話相手が欲しいんです。
どなかた話し相手になって下さい。
mail;○×▽erika◆★◎0621@○○.◇◇



 このような書き込みを見つけた。
 エリカは青くなった。メールアドレスも同じ、名前も一致している。
 いたずらかしら? 誰かが故意に投稿したいたずらだろうか? 
メアドも名前も一致しているなんて偶然のいたずらなんて思えない。一体誰が……。
頭に忍とよしのの顔がよぎった。(ううん)エリカは首を横に振る。
忍たちが嫌がらせで投稿したと、証拠はどこにもない。
 パソコンの前でエリカはフリーズしていた。パソコンのようにCtrl+Alt+delateで
再起動できればいいのだが、今のエリカは再起動できる状態でなかった。
 どうしよう。このまま更にメールが来ても困る。一人一人に断りのメールを入れるのも大変だし、
関わり合いになりたくない気持ちもある。このHPの管理人に書き込みはいたずらだとメールして、
削除してもらおうか。HP管理人のメールアドレスは載っている。
 友達以外に、知らない人にメールをするのは初めてだったが、サイトの管理人へ
真面目にメールを書いた。
2時間後メールチェックをしたら管理人から返事が来ていた。
なんとかその書き込みを削除してもらえた。
 書き込みの時間は16時12分。携帯電話からの書き込みだ。いったい誰が・・・・・・。
私の携帯メールを知っている人物と言ったら、中学の友達と、従妹と、母親と……
それと忍たちのグループのメンバーくらい。今日は5時間授業で3時半には学校が終わった。
16時12分なら充分に書き込みできる時間だ。それに話し相手が欲しいって……
今ある自分を見透かされているような書き方。まさか――
 考えられるのは忍たちしかいなかった。でも証拠はどこにもない。そういえば。
インターネットってIPアドレスといって訪問者の接続状況を示したアドレスが管理者側には
残るって聞いたことがある。もう一度HPの管理人さんにメールして聞いてみようか……。
いや、でも手間をかけさせるのも悪いし、これ以上関わりあいにならないほうがいいかもしれない。
投稿は削除してもらったけど、とりあえず、携帯メールのアドレスは変えよう。
簡単にできる。エリカはメールアドレス変更の手続きをした。


 次の日、お昼になると、またANATORIA食堂に行った。
「こんにちは、今日のランチはなあに?」
「なんだか表情がパッしないな。どうかしたか?」
 なるだけ明るく振舞ったつもりであったが、オッドアイの店主には、すぐ
元気がないことを見破られてしまった。
 ラムセスは調理場でジュウジュウと音を立てながら何かを焼いていた。
まだランチの用意はできていないらしい。エリカはいつもの席に座ると、
最近、シカトだけでなく嫌がらせも受けると、ラムセスに話した。
「ああ、もう学校行きたくないなぁ。やめたいなぁ」
 エリカは頭を抱えてテーブルに伏せた。そのままじっと涙が出るのだけはこらえた。
 ラムセスは何も言わない。その代わり、調理場を歩き回っていた。
 数分後。
「エリカ、今日はお前のために特別ランチを作った。『ナキアの腹黒丼』だ」
 ラムセスに声をかけられた元気のない少女はゆっくりと顔をあげた。
 テーブルには黒いどんぶりが乗っていた。「ありがとう」と小さく言うと、
どんぶりの蓋をあけた。どんぶりの中は真っ黒だった。真っ黒なご飯に直径5mmくらいの
プツプツとした丸いものがいくつも乗っかっていた。それと細切れの真っ黒な
肉も同じくらい乗っていた。
「何……これ?」
 なんともいえぬ変なにおいもする。見た目もにおいも決してエリカの食欲をそそる
においではなかった。しかし今までラムセスの作ってくれたランチは
みんな美味しかったので、エリカは割り箸を割って、真っ黒なご飯と黒いツブツブを
口の中に運んだ。
 ――次の瞬間、思わず口の中のものを吐き出した。
「な、何これ? もしかしてこの黒いツブツツ正露丸?!」
 驚愕の表情でエリカはラムセスを見つめた。
「そうだ、黒のツブツブは正露丸で、細切れの肉はコウモリの肉を焦がしたものだ。
ご飯にはイカスミがかけてある」
 オッドアイの瞳を持つ男は坦々と言った。
「どうしてこんな……」
 エリカは『ナキアの腹黒丼』とラムセスの顔を交互に見つめながら言った。
「俺は老若男女を問わず、グチグチ落ち込む奴は嫌いなんだ!」
「…………」
「学校をやめたいだと? お前学校に何をしに学校に行ってるんだ? 友達を作るためか?
それも大事なことかもしれんが、学校には勉強しに来ているんだろう。エリカ、成績はどのくらいだ?」
「え……真ん中……くらい」
 急に成績のことを聞かれたエリカはギョッとした。広域分類すれば真ん中だが、
詳しく分類すると、中の下に相当する。テストをやっても平均点ギリギリか
もしくは下回ることもときたまある。
「学校には勉強しに来ているんだ! 高校は義務教育じゃない。イジメられようがシカトされようが、
とにかく勉強してみろ。頑張ってみろ。学年で一番でも取ってみてから、
学校をやめること考えるんだな」
 オッドアイには怒の文字が浮き立っているようであった。いつもやさしく
ニコニコしているラムセスのこんな表情ははじめてみる。
「い、一番なんて無理だよ……」
「一番は無理だとしても、頑張ってみて損はないと思うぞ。いつも家に帰って
何してる? 勉強してるか?」
 首を横に振った。なるだけ忍や菜種たちのことは考えないよう、家でも一人に
ならないようにリビングでボーッとテレビを見ていることが多かった。
 勉強なんてする気になれなかった。このまま勉強しなければ、中の下どころか、
下の下になってしまうかもしれなかった。
「そう……だね。私、家に帰って殆ど勉強なんてしてないや。これを機に、
がんばってみたほうがいいかもね……」
「そうこなくっちゃな。辛くなったら、『ナキアの腹黒丼』の味を思い出すんだ。
あのどんぶり食うこと思えば、勉強するなんてどうってことないだろ。
頑張ってみろ! 口直しに元気づけランチだ。今日は『薔薇のたこ焼き』だぞ」
 ラムセスはナキアの腹黒丼を下げて、別のランチを持ってきた。
「すごい!」
 エリカは歓喜の声をあげた。叫んでしまうのも無理はない。
大きなお皿に、大玉のたこ焼きが3×3で9個乗っており、たこ焼きの上には
薔薇の花が乗っていたのだ。薔薇と言っても本物ではない。大きなかつおぶしを
花びらに見立てて、薔薇をかたどったものだったのだ。焼きたてのたこ焼きを
台座にするように乗っており、湯気のせいで花びらが生き物のように
ふよふよ動いていた。
「これ食べて頑張るんだな!」
 ラムセスは薔薇の花びらの上に青ノリをふりかけた。
「ありがとうラムセスさん。私がんばるよっ!」
 エリカはホクホクのたこ焼きを口に運んだ。中には大きなタコが入っていた。
外国人なのにたこ焼きを作るのが上手だなぁと思った。
「ごちそうさまでした。今日もおいしかったです。私、学校戻りますね!」
「おう、頑張れよ、エリカ! それと前歯に青ノリついてるぞ!」
 歯を見せて笑ったエリカは慌てて口に手をあてた。
「頑張れ、青ノリ少女! 応援してるからな!」
 ラムセスはエリカに向かって投げキッスをした。



5.薔薇ムセスのマグロ丼


 ラムセスに言われたとおり、エリカは勉強を始めた。もっとも、テストが
2週間後に迫っていたから、そろそろ勉強を始めなければならない時期でもあった。
 一人になると考え込んでしまい、辛くなることもあったが、とにかく頑張ってみた。
 その間も、お昼になるとANATORIA食堂に通った。
 タバルナ丼、ファラオ丼、ルサファの悲しみ丼、ハディのしっかりランチ、
鈍感ユーリのカマトト丼。意味のわからないメニューもあったが、
それぞれみんなおいしかった。
 テスト3日前の放課後、エリカは帰ろうとすると、背中から自分の名前を呼ぶ声が
聞こえた。振り向くと菜種が立っていた。
「ねえ……エリカ。いつもお昼どこで食べてるの?」
 心配した表情で菜種はエリカを見つめている。ここ一ヶ月、誰も話し掛けてくれないのが
普通だと思っていたエリカは少々呆然とした。一呼吸おいて菜種に言った。
「大丈夫だよ。私は一人でも大丈夫。私なんかと一緒にいると、忍たちに嫌われちゃうよ」
「でも!」
 菜種はエリカの腕をつかんだ。
「菜種! 何やってるの。そんな奴と話すんじゃないよ!」
 2人の耳に聞こえてきたのは、「グループから出て」とエリカに言ったよしのだった。
「私のことはいいから、よしののところへ行きなよ……」
 エリカはつかまれた腕を振り切って、昇降口に向かって廊下を歩き始めた。
 振り返らなくても菜種が自分の背中を見ていることがわかった。
歩きながら、自分を心配してくれる人がいるのだと、菜種は完全に裏切ったわけじゃ
ないのだと思うと、安心と不安が入り混じった気持ちになった。
 それから、今までにないくらいエリカは勉強した。テスト問題をやはり今までになく
スラスラ解くことができ、結果は、エリカにとっては空前絶後のものであった。
 中の下が中の上に、クラスでも10番以内に入ったのだ。エリカにとっては
信じられない快挙である。担任にもよくがんばったと褒められた。
なんだか成績が上がったことでよけいに忍たちにいじめるのではないかと思ったが、
前までと同じレベルのシカトであった。
 エリカにとって、成績が上がったことを一番伝えたかったのはラムセスだった。
お昼休みになるや否や、エリカはANATORIA食堂に走った。
「ラムセスさん! 聞いて。成績上がったんだよ!」
「すごいな。よく頑張ったな!」
「うん!」
 元気に返事をした。
「じゃあ今日はお祝いランチだ。『薔薇ムセスのマグロ丼」』だ」
「すごい!」
 どんぶりを見たエリカは声を上げた。ホカホカのご飯の上に、
真っ赤なマグロで薔薇の花が形作ってあった。
「その後、クラスの様子はどうだ?」
 食べ終わると、ラムセスは静かに聞いた。
「う〜ん、変わらないかな。テスト前に菜種が「お昼どこで食べてるの?」
って心配してくれた。でも相変わらず、みんな私のことなんかシカトだよ」
「そうか……」
 2人ともしばらく黙っていた。その沈黙を破ったのはエリカだった。
「私ね」
「なんだ?」
「私……今、忍たちにいじめられてるって言ってるけど、実は中学のとき
私もある一人の子をいじめたことがあるんだ。シカトしたり嫌味を言ったり……。
ある数人の子たちが、その子をむかつくって言っているのを聞いたら、
自分までその子が嫌になってきたような気がしてね、みんなと同じくシカトしてたの……」
 ラムセスが入れてくれた食後のローズティーを一口飲んで話を続けた。
「自分がこういう立場になって、その子はみんなにシカトされてて
どんない辛かったんだろう、一人で心細かったんだろうって初めて思ったの。
よく考えると、その子、クラス中の人に嫌われるほどの悪い子じゃなかったんだよね。
みんなが嫌がってたから、私もそれに同調してたの。今考えると、共通の敵を作って
バラバラになったクラスの心をまとめているようにも思えるよ」
「共通の敵か……」
「自分がそういう立場にならないと、人の苦しみがわからないなんて、
最低だよね。今はその子をイジメた報いが来ているのかなぁって思う。
本当に、その子にごめんなさいって今更だけど、心から謝りたいよ……」
 エリカは薄茶色をしたローズティーを見つめながら言った。
「エリカには想像力が足りなかったんだな」
 黙って話を聞いていたラムセスが口を開いた。
「想像力?」
「シカトされたり、いじめられたらどういうふうにその子が思うか、中学のときは
想像できなかったわけだろう。想像力が足りなかったんだよ」
「確かにそうだね」
「もうこれからは、絶対シカトしたり、人をいじめないことだな。
相手が傷ついた分、まわりまわって結局自分も返ってくることになるんだ。
そのつらかった気持ちを忘れるな!」
「うん、絶対わすれないよ。辛いもの」
「そうか、エリカはいい経験ができたな」
 セピアのほうの瞳を軽くつぶってラムセスは笑いかけた。
「想像力を養うには、本を読むことだな。そこでエリカにプレゼントだ。これを読め」
 ラムセスは大きな紙袋をエリカに渡した。中にはまんが本が30冊近く入っていた。
「天は赤い河のほとり?」
 エリカは紙袋の中から1冊取り出して言った。
「'てん'じゃなくて'そら'と読むのだ!」
「天丼と同じね……」
「この本読んで、エリカの想像力を養うんだ!」
「まんがで想像力ね……それにしてもたくさんあるね。いっぺんにこんなに読めないよ」
「少しづつ読んでもいいさ」
 ラムセスの口元は静かに笑っていた。
「あっ、そろそろ学校に戻りますね。今日もご馳走さまでした!」
 エリカはテーブルに400円を置いて、重たい紙袋を持ってツタンカーメンのドアに
向かった。
「エリカ!」
 背中にラムセスの叫ぶ声を受けた。エリカは声に振り返る。
「エリカ、頑張れよ。元気でな!」
「ありがとう、ラムセスさん」
 金とセピアのオッドアイは美しい輝きを放ち、エリカを見つめて笑っていた。
エリカも満面の笑みを返して、裏門に向かって走っていった。

 午後の授業の休み時間。エリカはラムセスからもらった天は赤い河のほとりの1巻の
ページをめくった。
「エリカ……その本知ってるの?」
 おそるおそる話しかけたのは、隣の席の綾芽(あやめ)であった。
「うん、今読み始めたばかりなんだけど……」
「その本、すっごく面白いのよ。絶対におすすめ。読んで読んで!」
 綾芽は嬉しそうに言った。自分の好きな本を読んでいる人がいたので
興奮している様子だった。
 家に帰って、紙袋のまんが本を1冊ずつ読み始めた。綾芽の言うとおり、
すごく面白い話だった。ANATORIAの意味がよくわかったし、タバルナ、タワナアンナの
意味もしっかり理解できた。30冊近くもいっぺんに読めないと
いいつつ、深夜2時までかかって一気に読んでしまった。
 これは面白い。
 さっそく、明日ANATORIA食堂に行ってお礼を言わなければいけない。そう
思いながら眠りについた。
 学校に行って、まず天は赤い河のほとりファンの綾芽と話した。
「ねっ、天河面白いでしょう!」
 天は赤い河のほとりは略して天河というらしい。濃厚な天河ファンの綾芽は
やはり興奮して天河について語った。
 お昼休み――
 さっそくANATORIA食堂に行こうと思うと、「エリカ!」と叫ぶ声に
教室を出る足が止まった。声の主は菜種。真剣な表情で見つめていた。
「どうしたの?」
 小さな声で菜種に聞いた。
「ねえ、お昼一緒に食べよう」
 忍たちが驚愕の表情で2人をみつめていた。
「いいよ、私一人でも大丈夫だから……」
「ううん、いいの。一緒に食べよう」
「だめだよ、いいよ」
「もういいの。やっぱりエリカを一人にしておくなんて耐えられないもの。
私はエリカと一緒にいる!」
 菜種ははっきりと言い切った。忍たちはヒソヒソとこちらを見て話している。
「でも……私お弁当持ってきてないし……」
「じゃあ、購買でパンでも買ってくる?」
 自分と一緒にいることで、菜種まで嫌がらせに合うんじゃないのか?
そう思ったが、やっぱり「一緒にいてくれる」という菜種の言葉は嬉しかった。
「本当に、私と一緒でいいの?」
「うん」
「じゃあ……お昼食べるのにいい所があるの。ついてきて!」
 エリカは菜種の好意をそのまま飲み込むことにした。ANATORIA食堂があるから、
お昼は一人でも平気だったけど、素直に菜種の気持ちは嬉しかった。
 ――菜種は完全に裏切ったわけじゃなかった。一人じゃなかったんだ。
そう思うと嬉しくて涙が出てきそうだった。
 菜種をラムセスに紹介しよう。きっと喜んでくれるはず。
エリカは校舎の裏まで菜種を連れていった。
「裏門からすぐの所にね、ANATORIA食堂っていう食堂があるの。
私はいつもそこで……」
 エリカは裏門の前まで来て呆然とした。ANATORIA食堂が閉まっていたのだ。
営業中の札がなかった。札どころか、ANATORIA食堂の看板までなくなっていた。
「ここは誰も住んでいないはずよ。食堂なんてなかったと思うけど……」
 ドアにはツタンカーメンが昨日までと同じく重々しくついていた。
試しにツタンカーメンのドアノブを引いて見たが、重く鍵がかかっていた。
ドアの向こうには人のいる気配はしない。建物は老朽が激しく、
何年も使っていない空家のようだった。菜種のいうとおり、
誰も住んでいないというのが正しく思えた。
 エリカはキツネにつままれたような錯覚に陥った。昨日まで確かにANATORIA食堂は
あった。オッドアイのラムセスはいたんだ。しばらく呆然としていた。
「エリカ、いつも校舎の裏でお昼食べてたの?」
「え……うん」
 思わずエリカは頷いてしまった。
 ここにANATORIA食堂があったと、菜種に話して信じてもらえるだろうか?
とてもじゃないが、食堂があるような建物には見えない。
「ここ、日当たりがよくって気持ちいいね。だけど一人で食べてるんじゃ
寂しかったでしょ。これからは一緒にいるからね」
 菜種はニッコリとエリカに笑いかけた。頭のてっぺんに昇った太陽が、
菜種の黒髪を綺麗に反射していてまぶしかった。まぶしくてエリカは瞼を閉じたが、
再び開いた瞼は少し濡れていた。
「ありがとう」
 エリカはもう一度瞼を閉じて短く言った。
 爽やかな風が、涙をこらえるエリカの頬を優しくなでていた。 
太陽もポカポカして暖かい。まだすべての問題は解決したわけじゃないが、
信じられる友が一人でもいたことが嬉しくてたまらなかった。
 二人を包む太陽は、ANATORIA食堂の古びた黄金の仮面にもやさしく注がれていた。
ツタンカーメンの瞳をよく見ると、それは薄い茶色と霞んだ金色。
 金色のほうの瞳が、エリカの背中に向かってウインクをした。そのことを知っているのは、
これを読んでいる天河読者だけのようである……(笑)。


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