天河漫遊記

BY金

天河漫遊記 その1……1.すてきな一日 2.イシュタル名裁判
天河漫遊記 その2……1.とんでもない始まり 2.ラムセス会戦 3.ウガリット沖 会戦

天河漫遊記 その1
  
 後宮内に、慌ただしい空気が流れていた。
女官長ハデイとリュイ、シャラが、探し回っているのだ。
 「ルサファ、いた! ねえ、ユーリ様は、どちらにまで巡察をなさっておいでなの?
 これで2日も経ったのよ。相談しようにも、陛下はお忙しそうだし、
 イル・バーニー様もキックリも見あたらないし…。何か知っているのなら、教えてちょうだい!」
 まったくだ。ルサファさえも、そう思う。だが、これはユーリ様たちから口止めされているのだ。
 「すまない。おれも知らないんだ。いまミッタンナムワに探させているから」
 嘘がばれないかとヒヤヒヤだった。
 「んもう〜、キックリったら、頼りがいないんだから! こんな時にいてくれればいいのに〜」
 リュイの怒りに、ルサファは首をすくめた。
気の毒なキックリ。彼はいま、陛下の代わりに皇帝の役を務めているのだ。
政務室から一歩も出られずに、アイギル議長と共にこもっていた。

    1.すてきな 一日

 雑木林から、心地よい風が吹いてくる。空は、雲ひとつない秋晴れ。
痩せた麦畑にも、金色の波が風でうねっている。
 「やれ、やれ……。ふぅ〜」
 畑の中から、黒いスカーフを巻いた男が姿を現した。麦を刈っていたのだ。
 「こっ、腰が痛い。どうしてこの私が、こんな事をしなくてはいけないのだ」
 そうぼやく男に、木陰にいた男が笑った。ヒッタイトの皇帝カイルだ。
 「苦労かけるな、イル。しかし……そのかっこう、案外似合っているぞ〜」
 「陛下、笑ってばかりいないで、見張りはしっかりやって下さいよ」
 端正なイル・バーニーの顔は、泥と汗まみれだ。
 「分かっているよ。しかし、農作業がこんなに大変なものだとは思わなかったなー。
 ユーリの提案に応じて良かったよ」
 「帝王学には、載ってはいないことですし。ユーリ様は陛下に民たちの暮らしを
 体験してもらいたかったようですな」
 「ああー、私を教育できるのは、ユーリだけだろうな〜。ほら、やってきたぞ。
 われらの家庭教師殿が……」
 
 細い畦道に、ユーリと老婆、そして二人の男の子が近づいてきた。
「カイル、お待たせ! 焼きたてのパンと山羊の乳を持ってきたよー。お昼にしよう! 」
 布を広げ、籠から食べ物をだすと、もうそこは楽しいハイキングとなった。
 だが、カイルたちは手をつけようとはしなかった。
「あのー、カイル。今度のは大丈夫だよ。お婆ちゃんが焼いたパンだから」
 そーう、カイルたちは昨日食べたユーリのパンに閉口した体験をしている。
見かけは良かったのだが、硬くて食べられなかったのだ。
 
 安心しきった二人と、複雑そうなユーリの様子に老婆は語りかけた。
 「こんな物しかありませんが、だんな様方、食べて下さいまし。あなた様方が
 おられなかったら、孫とあたしゃ今年の収穫もできずに、ご領主様にも神殿にも、
 税を納めることができなかったでしょう。本当に何とお礼を言ったらいいのか」
 涙をためる老婆に、年上の子が抱きついた。
 「婆ちゃん、泣くなよ。おいら大きくなったら、父ちゃんみたいに強くなって、
 皇帝様の軍隊に入るんだ。そして、婆ちゃんを大事にする」
 「ぼくも……」
 そう答えた下の子を、ユーリは抱きしめた。
 「そうだね。大きくなって、お婆ちゃんを幸せにしてあげるんだよね。
 だけど、お兄ちゃん。どうして、皇帝陛下の兵士になりたいの?
 戦さは、怖いんだぞ〜。死ぬかもしれないのに…」
 「だって、あそこにはイシュタル様がいるもん。あの人がいれば戦さに勝って
 お金もらって、みんな家に帰れるって、おじちゃんたちが言ってた。
 だから兄ちゃん、おいらに剣を教えてくれよ。りっぱな剣持ってるから兵士なんだろう? 」
 苦笑いを浮かべて、カイルは男の子の両肩に手をさしのべた。
 「どうするユーリ? 幼いながらこの子は、しっかりしているな。坊や、お婆さんが心配
 して見ているぞ。もっと大きくなってから、尋ねて来るといい。それでいいな、お婆さん」
 「ありがとうございます……」
 伏し拝む老婆を、ユーリは優しくいたわった。

 ここはハットウサの郊外、緑の雑木林と荒れ土の畑が広がる小さな村バララ。
その村人である老婆は、兵士だった息子と病死した嫁が残した忘れ形見の孫たちと、貧しさのなかで暮らしていた。
畑は、麦が大きな袋に4袋しか収穫できない狭い土地だった。
 さまざまな税をそこから取られ、3人は残りの麦と山羊の乳で食いつないできたのだ。
 だが、その畑さえも取られようとしていた。
 バララを治めていたのは、貴族のマルエグリ・シュスス。ナキア皇太后が治めるテシュプ神殿の神官も務めている。
その男が、村の土地をことごとく取り上げているようだ。
 「あの男には、陛下は会ったこともないでしょう。貴族でも下級貴族で、出は隊商の者だとか。
 ルサファの調べでは、金を貢いで皇太后に取り入った模様です。貴族の身分も、金で買い取ったとか」
 カイルたちは、狭い日干し煉瓦の小屋のなかにいた。すぐ側では、ユーリが夕食をこしらえている。
 外は夕闇がせまり、前にあるはずの老婆たちの小屋からは灯りも見えない。
灯りにする油も買えない、貧しさなのだ。
 「できたよ、カイル。イルも食べていかない」
 いろり火の薄明るさのなかで、ユーリが鍋を持ってきた。
 「あっ、いいえ。私はこれにて老婆の家へ帰らせていただきます。どうかおふたりで、お召し上がり下さいませ」
 「そ〜う、帰っちゃうの」
 笑いをこらえるカイルと、ため息をつくユーリを後に、イルは外へ出た。
 「今回だけは、ユーリ様の食事は遠慮しておこう。 しかし……か、体が痛い。
 こんな畑仕事になるのならば、おふたりだけで巡察に出せば良かった」
 そうぼやきながら、イルは老婆の小屋を目指していった。

 おいしそうな香りにつられて、カイルはユーリの手料理に口をつけた。王宮内では、とてもできない体験だ。
 「ん? ユーリ、これはなんだ? 少し苦い味だな。それにこの白い物はなんだ?」
 「口に合わない? そうだろうね〜。王宮内では、おいしい物ばかりだもの。
 ごめんなさい、失敗ばかりして。お婆ちゃんの所に合わせて、作ったスープなの。
 食べられる野草を摘んで、そのまま入れたスープだから、きっと苦いんだ。
 味付けは塩と香辛料だけ。白いのは薄い麦の団子。食べ物、市場で買ってくれば良かったね」
 ユーリの想いと気くばりに、カイルは微笑んだ。
 「感謝しているよ、ユーリ。皇族の暮らししか知らなかった私に、女神イシュタルは
 いろいろと教えてくれている。おかわりさせてくれ。まだまだ空腹なんだ」
 粗末な夕食が終わり、薄暗い灯りが小屋のなかに灯った。
 「あの〜、カイル。ダメだよ。みんなに聞こえちゃう」
 「だれも気にしないさ。それに夫婦だと観られている。私は、まだ空腹なんだ。
 おいしい物が側にいるのに、食べられない事はないだろう? 」
 「ん、もう〜。カイルのH」
 固いベッドのなかで、衣ずれの音と熱い吐息が、深い闇に染みこんでいった。


 2.イシュタル 名裁判
 
 バララ村の朝は、早い。
30分もかかる水汲み場から水を運び、乾燥した山羊の糞を燃料にして湯を沸かし、うすい粥で朝食をとる。
男たちはロバや牛に鍬を引かせて農作業に、女たちは機織りかパン造りに精を出している。
 「みんな、すごく働くね〜。もっと豊かだったら、暮らしが楽になれるのに…
 それなのに領主は、村の暮らしを壊していく。いったい、何のために土地を取りあげているんだろう?」
 「もちろん、決まっております。もっと高い地位や富を手に入れるために、
 ナキア皇太后に気に入れられるために、土地を贈っているのです。マルグエリは村など、どうでもよろしいのです」
 イルの話に、ユーリは怒りを募らせていった。
 高い身分を利用するだけ利用して、民たちを守ろうとしないマルグエリに会いたいとも思った。
 「ユーリ、イル。この村に居られるのも、これで最後のようだぞ。どうやら
 御領主様の私兵どもがやってきたようだ。やれやれ、おとなしく従うとしようか」
 カイルが言ったように、5人の兵士たちが畦道にいた。

 ユーリたちは、村の広場まで連行された。
そこには、村人たちが全員集められている。みんな恐れをなして、青い顔だ。
 「ご、御領主様。あのー、これはどういう事でしょうか?」
 村長の問いに、やせ細った男がふんぞり返って応えた。マルグエリ・シュススだ。
 「きょうから村は、ナキア皇太后様の所有物となる。おまえたちもテシュプ神殿で
 働くようになれるのだ。あー、それに村長。おまえの娘ローズはなっ。わしの側室とする。ありがたく思えよ」
 「えっ、ローズはラヌルの妻です。それだけは、お許し下さいませ」
 だがローズはラヌルの前で、マルグエリに抱きあげられてしまった。
 「ちょっと、あんた! なんて、や〜な奴なの。それでも神官なの?カイル、こんな奴、最低〜! 」
 ユーリの剣幕に、マルグエリは怒鳴りかえした。
 「なんだと、小娘。おまえ、よそ者らしいな〜。おい、三人とも神殿まで連行しろ。
 その太々しさを、神の前で叩きのめしてやる」
 だが兵士たちは、カイルとユーリの敵ではなかった。
 「まったく、おまえといると退屈はしないな、ユーリ。おいマルグエリ シュスス。
 娘を離して、これをジックリ観るといい。まっ、おまえには初めてのものだろうがな」
 カイルの手から、慌てふためくマルグエリに書簡が投げつけられた。
書簡には、ムルシリ2世の印章が押されている。
 「なんだ、これは? 」
呆然とするマルグエリの背後で、聞きなれた馬と戦車の音が近づいてきた。
 「マルグエリ様、軍隊です。助かりました。お〜い、ここだ。ここに凶悪犯がいるぞ〜。助けてくれ〜」
 だが部下の声は、凍りついた。軍隊は、皇帝の親衛隊だったのだ。

 「カイル様! ユーリ様。お迎えに上がりました。大変です。
 またエジプトが戦さをしかけてきました。元老院の方々も王宮内で、お待ちです。
 早くご帰還を! 」
 キックリの凛々しい姿と共に、ハデイたちも馬上にいる。
 「コホン。ムルシリ2世皇帝陛下、イシュタル様。この後始末、いかが致しましょうか?
 この御領主殿一行を、王宮内にまでご案内致しましょうか? 」
 イルの痛烈な口調に、カイルは笑いながら応えた。
 「そうだな、後始末があるな。キックリ、ご苦労だが待っていてくれ。
 ユーリ・イシュタル、この後始末、おまえならば、どうする? 」
 「皇帝陛下。みんなが居るこの場で、この男の裁判を開きます。
 検事はイル。忠実なる部下さん、あなたは領主マルグエリ・シュススの
 弁護人を命じます。村長、そして村のみなさん、 あなたがたはこの裁判の
 証人として聴いていてね。イル、貴族であり神官であるマルグエリ・シュススの
 罪を述べてちょうだい」
 
 驚き静まりかえった村人の前で、気絶寸前のマルグエリの裁判が始まった。
 「それでは、ミッタンナムワの調べで判明した罪を述べさせていただきます。
 マルグエリ・シュススは、チュヌヌ、ウルシュ、アニッタ、そしてこのバララ村の
土地財産を不当に没収し、自由民たちを神殿の奴隷として売った。これはヒッタイト法典
39条(土地保有に関する義務)46条(財産に関する義務)を放棄し売買した罪にあたります。
 そしてバララ村、ラヌルの妻ローズを、強引に妻にしようとした。これは175条
(不法な結婚)の罪にあたります」
 「それで要求する刑は?」
 「地位、身分、財産没収、絞首刑を求めます」
 マルグエリは、泡を吹いて気絶した。
 「弁護人、領主の弁護をしなさい」
 「ごっ、ご主人様は、ナキア皇太后様の庇護の元にあります。手出しは、できないかと…」
 カイルが、弁護人を睨みつけた。
 「あわわわ〜! お許し下さい! ご主人様の罪を認めます。命だけはお許しを〜」
 「ユーリ・イシュタル、判決を下すように」
 ためらうユーリはカイルを見つめると、意識を取り戻したマルグエリに告げた。
 「マルグエリ・シュスス、検察官が述べた2つの罪により、判決を下します。
 地位、身分、財産没収。ハットウサからは永久追放。命だけは助けてあげるから
 良心を覚まして、これからの人生をやり直すがいい」
  イシュタルの名判決と、寛大なる皇帝陛下を讃える歓声が、村人からも親衛隊からもわきあがった。 
 そのなかで、マルグエリ・シュススは部下と共に、衛兵に抱えられながらバララ村を去っていった。

 王宮内で待ちかまえていたのは、慌ただしい会議と戦さの準備だった。
つかの間の休息がとれたころは深夜となり、二人は寝所で眠っていた。
 「どうした? ユーリ。何を考えているんだ」
 薄暗い夜のなかで、ユーリは起きあがった。
 「カイル。あたし、あの時、判決を下すのが怖かった。あたしの考えで、人の運命を変えて
 しまうんだよ。人の上に立つって、重いものだね」
 「そうだな。人の上に立つ皇帝も責任は重く厳しい。孤独感もつきまとう。だけど、私には
支えなければいけない民たちがあり、信用できる側近たちもいてくれる」
 カイルの手が、ユーリを横たおし抱きしめた。
 「そして何よりも、私を癒してくれるおまえが居てくれさえすれば、私はその重圧にさえも乗り越えられるんだ」
 満天の星の群れが、二人の愛を祝福するように煌めいていた。
 
   <その1、完> 


    (おまけ)

 同じ夜の時、イル・バーニーはホッと胸を撫でおろしていた。やっとこれで、フカフカなベッドで眠れる。
そして何よりも嬉しいのは、ハデイの料理。けしてユーリの手料理がマズイのではないのだが……、
貧しい村の材料が、イルの口には合わなかったのだ。
 しかし、腰が痛い。肌も日焼けで、ヒリヒリする。扉を叩く音がした。 声がする。
「イル・バーニー様、マッサージいたしましょうか? 」
 聞きなれた声に、イルは努めて冷静に返事をした。
「コホン。どうぞー。お願いする」
 流れ星が一つ、空に流れていった。




天河漫遊記 その2
 
 ヒッタイト帝国にとって最重要な都市ウガリットは、エジプト戦のただ中にあると
いうのに港も街並みも、交易でにぎわっていた。
さまざまな品物が市場で売られ、異国の民たちの姿も多く見られる。
 「ユーリ、そんなにキョロキョロしていたら、迷い子になるぞ」
 好奇心いっぱいで眺め廻しているユーリに、カイルは神経を張りつめていた。
 また、いつかのように、どこかへ飛んでいってしまいそうで不安になる。
 「も〜う、カイルったら。あたしは子供じゃないんだよ。迷っても、ちゃんと王宮には
 帰って来れるったら……」
 カイルたちは、お忍び姿で街並みを視察していたのだ。
 「カイル様、もう時間がありません。どうかお戻りを」
 後ろで、キックリとルサファが控えていた。二人とも、荷物の山を抱えて大変そうだ。
 「ごめんね、キックリ、ルサファ。あたしも、荷物持つよ」
 荷物の中身は、夜の宴に出る料理の材料。
料理の指導はユーリが、作るのは三姉妹と王宮の料理人たち。
ユーリはバララ村での料理不評を挽回しようと、がんばっているらしい。
鋭い視線と黒い影が、そんな4人の背後に潜んでいた事には、
だれも気づきはしなかった。

 
1,とんでもない 始まり
 
 2度のエジプト戦の戦況は互角で、前線では1週間も海岸沿いで睨みあっている。
ホレムヘブ王はたいした事はないのだが、将軍ラムセスの手腕に、ヒッタイト軍は手こずっていた。
 「さて、われらヒッタイトの小隊長に兵士たちよ。今宵の王宮での宴は、皇帝陛下の
 御厚情で無礼講だ! タップリ呑んで、たくさん食べて、日ごろのウサを晴らしてくれ。
 なお料理は、全部イシュタル様じきじきのご指導の元に作られたものだ。一皿も残すんじゃないぞ〜! 」
 ミッタンナムワの大声に、みんな上機嫌で応え、にぎやかに宴を始めている。
 「おい、ミッタンナムワ。あの旅芸人たち、身元は確かなんだろうな」
 ルサファが心配そうに、玉座の前で踊っている踊り子たちを眺めている。
アルザワ戦でのユーリの戦略を、思い出していたのだ。
 「ワハハハー。大丈夫だ。あいつらは今、ウガリットで人気のある旅芸人たちなんだ。
 何かあったならば、俺たち三人がいるじゃないか? そうだろう、カッシュ」
 カッシュはミッタンナムワに応えるように、ルサファの口にワインカップを押しつけた。
 「そうだ、心配性は命を縮めるぞ〜。見ろよ、ルサファ。お二人の表情を……。
 みんな、幸せなお二人を眺めて癒されて、明日への活力を得ているんだ。おまえも、楽しめ」
 ルサファは、しみじみと玉座を見つめた。

 カイルの前には、珍しい料理が並べられていた。
魚のグラタン、スパゲッテイ風の料理、ピザ風のパン、鹿肉の蒸し焼きに、
湯気をたてている山鳩の鍋物、そして野菜とニンニクのマリネ。
みんな、ユーリが作ったメニューだ。日本にいる、ユーリのママから教えてもらった物らしい。
 「ねえー、カイル。あの踊り子さん美人だね。若い男の人の、アクロバットもすごいよー」
 「ユーリ、私はそれよりも、アルザワ戦でのユーリの踊りを見たかったな」
 「えっ……!」
 恥じらいで朱に染まったユーリの顔が、かわいい。
 「あっ、あの〜、そうだ。この前のバララ村で使った書簡、どこへやってしまったの?
 大事な印章が押してあったでしょう」
 ムルシリ2世の名を刻んでいた書簡は、行方不明となっていた。
 「ああー、あれか。あの書簡は、老婆の孫、上の男の子に預けてある。大きくなったら
 王宮へ訪ねて来るようにとな」
 「軍人にするの? 」
 老婆の不安な顔が、思い出される。
 「本人の希望しだいだが、イルにまかせるつもりだ。有能な側近を育てるのも皇帝の使命だからな」
 そこへミッタンナムワが、男を引き連れてひざまずいた。
 「陛下、旅芸人の団長が、お礼のご挨拶をしたいとの事ですが、いかがでしょうか?」
 潮の香りが染みついた毛むくじゃらの姿に、ユーリは違和感を感じとっていた。
 その出会いが、とんでもない事件の始まりだった。

 次の日も、ユーリは市場へ出かけた。お供は、ハデイにリュイとシャラ。
 「ねえ、おばさん。この布地、負けてよ」
 ユーリの巧みな値切りに、三姉妹はおかしそうに笑っている。
 「ハデイ、これでキックリとイルに、上着を縫ってあげようよ。リュイはキックリの分をね」
 市場を離れた3人は、海の見える小道にたどりついていた。シャラの姿だけがない。
その時……、ユーリの足に長い棒が投げ出された。
 倒れこむユーリは、そこでハデイとリュイを捕らえようとする男たちを見た。
 「痛い。何すんのよ! 」
 「何者? ユーリ様、お逃げを……」
 だが屈強な男たちの前には、ユーリたちの手には負えなかった。
さるぐつわを噛まされ、小船に乗せられ沖へと出ていく。
 「ユーリ様! 姉さん、リュイ」
 シュバスに頼まれていた用事で遅れたシャラが、隠れたままで誘拐の一部始終を見ていた。
 突然の事態に、シャラの顔を青く震えていた。


  2,ラムセスと海賊

 乱暴に抱きかかえられたユーリたちは、一隻の帆船に乗せられた。
 「おい、ボスは、まだ帰ってはいない。船蔵にでも、詰めこんでおけ」
 片足の男の指図により、暗い船蔵に放り投げられた。
驚いたことに、そこにはいろんな民族の娘たちが監禁されていたのだ。
 「ハデイ。この人たちも、あたしたちのように拉致されてきたようだね。ねえ、あなた。どうやって、連れてこられたの? 」
ユーリの問いに、バビロニア人らしい娘が答えた。
 「あいつら、地中海の海賊だよ。みんな、強引にさらわれてきたんだ。
 あたしたち、奴隷として遠い国へ売られてしまうんだ」
 「ユーリ様。まことに申し訳ありません。護衛の役を果たせず、こんな目に遭わせてしまいました。
 これからは命に代えましても、ユーリ様をお守りいたします」
 うなだれるハデイたちに、ユーリは笑顔で答えた。
 「大丈夫だよ、ハデイ、リュイ。きっとシャラが、カイルにこの事を知らせてくれるよ。
 そして、みんな助かる」
 「そうよねー。わたしも、そう願っているわ、ユーリ様」
 「ネフェルトさん! どうして、ここに〜? 」
 短い金髪姿のネフェルトが、侍女と共に座っていたのだ。
 「兄さんの後を追って、ビブロスまで来たのだけれど……、捕まっちゃったの。
 でも、こうやってユーリ様に出会えて、わたしラッキーだわ! 」
 貴族の娘らしい呑気さに、ユーリたちはただ呆然としていた。

 ウガリットの王宮では、カイルが多忙な政務をおこなっていた。
 「陛下。前線からの報告です。エジプト軍が、海へ撤退しているとの事です」
 キックリの報告に、カイルは憮然としていた。
 戦さを止めて退避するのならば、戦車でビブロスへ向かうのが近道のはずだが……。 
 「キックリ、もっと情報を集めてくれ。海に何かあるはずだ。
 海戦にでもなれば、こちらが不利になる。我々には、独自の海軍はないのだからな」
 ヒッタイトの海軍は、アルザワなどの属国で構成された連合軍なのだ。
 「大変です! 陛下。ユーリ様がさらわれました! 」
 「何……!」
 驚くカイルとキックリの前に、ルサファとカッシュ、そしてすすり泣くシャラがひざまずいていた。

 まぶしい陽光に、ユーリたちは目を細めた。暗い船蔵から、急に外へと追い出されたのだ。
 「われら『海の民』の海賊船『クラーヌ』へようこそ。ユーリ・イシュタル様。
 わしは、この船のボス、ダマスクス様だ」
 連れ出された部屋には、毛むくじゃらの男が女たちを侍らせ、荒くれ男たちが酒をあおっていた。
 「あなた、あの旅芸人の団長!」
 そして、その横にいたのは、エジプト軍の将軍ラムセスだった。
 「よぅ〜、ユーリ。また会えたな。赤い糸は、やっぱり俺とつながっているようだな」
 「…………」
 戸惑うユーリに、団長だった男が大笑いした。
 「これで、ヒッタイトの皇帝も骨抜きだ。寵姫を人質にしておけば、怖いものなどない」
 「そして、エジプト軍の味方をしてくれれば、手柄も金も取り放題だ」
 そうだ。ラムセスがこの船にいるという事は、もう海賊たちはエジプトと手を結び、
海から戦さを仕掛けてくるという事なのだ。事の重大さに、ユーリは青ざめていった。 


3, ウガリット沖 海戦

 船の甲板で、若い男が伝書鳩を飛ばした。足輪には、パピルスが巻きつかれている。
 「メーア、それで何羽目? ボスを裏切るというの? あんたの父親を…。
裏切りが知れたら、掟で、すぐに鮫の餌食にされるんだよ」
 男の身なりをした若い女が、男に近づいた。
 「ローゼ、告げるんなら、恨みはしないぜ。おれたちは、自由な『海の民』だ。
 エジプトの手先になって、前線で死ぬのは、まっぴらだ」
 「安心しな。あたいも、我慢できなかったんだ。それに許せないのは、
 娘たちの人身売買。女だからね、黙っていられやしないんだ」
 メーアとローゼは、この船で生まれ、一緒に育てられた二人だった。
 「それよりもさっ。ボスは、ヒッタイトのイシュタルをさらってきたらしいよ。どうする? 」
 女好きのダマスクスの事だ。黙っていられる訳がない。
 「お気の毒に……。きのうのお二人の様子、うらやましいほどだったのだがな」
 突然、船の船尾で、エジプト兵の叫び声が聞こえてきた。
 二人は顔を見合わせて、 船尾へと向かった。

 船尾のざわめきは、ユーリたちのいる部屋にも聞こえていた。
一人のエジプト兵が、ラムセスの元へやってきて囁いた。ラムセスの顔色が変わった。
 「おい、ダマスクス。これはどういう事なんだ? なぜ、エジプト人の娘が船蔵にいるんだ? 」
 ダマスクスは、ニンマリと笑った。
 「ラムセス! そこには、ネフェルトさんもいたよ」
 ユーリの話に、ラムセスが身構えた。
 「くそっ、俺への人質に取ったな! 裏切る気か」
 「おっと、あんたたちも、おとなしくしてもらおうか。わしは、エジプト軍に
 協力してやるが、犬になって尻尾を振ろうとは考えちゃいねえよ。
 そうしたければ、わしをエジプト王にするぐらいは、してもらえなくてはなっ。
 わしの力があれば、エジプトもヒッタイトも、おれたちの物だ。おい、野郎ども。
 上のエジプト兵たちのように、こいつらもふんじばって、船蔵へ押し込んでおけ。
 それに、この女官たちも連れて行け。おまえたちの勝手にしていいぞ〜」
 男たちの剣が、ラムセスたちを囲んだ。
 「ハデイ! リュイ、ラムセス」
 ユーリがハデイの側に着こうとした時、ぶあつい手から捕まえられた。
 「おいおい、イシュタル様。あんたの相手は、このわしだ。皇帝のように可愛がってやるぜ」
 「ユーリ様!」
 嫌がるユーリの姿を見て、ラムセスは怒鳴った。
 「ダマスクス、いい気になるなよなっ。そいつに、指一本触れてみろ。
 俺も、そしてムルシリ二世も、おまえたちには容赦しないからなっ」
 二人になろうとする部屋に、ラムセスの怒りが残されていった。

 王宮内は、不安な空気に包まれていた。特にキックリの落ち込んだ姿が、痛々しい。
 「キックリ、元気を出せよ。リュイは、すぐに帰ってくるさ。何と言っても、運の強いユーリ様が
ご一緒なんだ。陛下も、気を取り直しておられるんだぞー」
 ミッタンナムワの慰めに、キックリは苦笑を浮かべるだけだった。
 「そうだ。ユーリ様も、ハデイも、リュイも心配はない。この髪をした女のように、
 死んではいないんだ。きっと、無事に帰ってくるよ」
 カッシュの言葉に、キックリはハッとなった。
彼の頭に巻き付けた黒髪の女は、ナキア皇太后の策略の犠牲で処刑された恋人ウルスラだった。
 「すまない、カッシュ。ミッタンナムワ、ありがとう。冷静になって、待つよ。
 わたしは、陛下の側に戻るよ」
 明るい笑顔で、キックリは政務室へと駆けていった。
その時……、衛兵が伝書鳩をたずさえてきた。手には、一枚のパピルスが握られていた。

 「やだ〜、離せ!」
 象牙色の肌に、悪寒がはしる。
何とかしなければ、取り返しがつかなくなる。
はがい締めにされながらも、ユーリの手は物を掴もうと探した。
あった! 空になった酒の壺。
 「おっと、気の強い女神様。あきらめな。おとなしくして、楽しもうじゃないか〜」
 「やぁー! 」 
 腕を捕まれ、身動きができない。
 ―――ガシャーン!
 あっという間に、ダマスクスが頭を打たれ、前のめりに倒れた。若い男が、ビンで殴ったのだ。
 「イシュタル様、お助けいたします。だけど、命の補償はありませんが……」
 「早く! メーア。小船を降ろしたよ!」
 若い男女に、ユーリは驚いた。
 「あなたたち、旅芸人の踊り子さんに、アクロバットをやってくれた人」
 上で、剣を交える音が聞こえる。
 「また、何かあったな。話は後にしてくれ。行くぜ、ローゼ」
 看板に出ていくと、ラムセスたちが暴れていた。ハデイたちも、無事だ。
 「ほ〜う、ユーリ。そっちも無事なようだな。ありがとよ、お二人さん。
 俺たちが生き残ったら、礼はタンマリしてやるぜ」
 ラムセスのオッドアイが、キラキラと輝いている。
 「メーア様、ローゼの尼! 裏切りは御法度ですぜ」
 片足の男が、怒鳴りちらした。
 「それが、どうしたんだよ! あたいも、ボスのやり方には飽き飽きしているんだ。
 くやしかったら、殺してごらん」
 ローゼのたんかに、海賊たちはひるんだ。ユーリも、剣を握った。
 身軽さを武器にして、男たちに致命傷を与えた。

 だが、彼らも戦さのプロであり、多人数すぎた。
ユーリたちは、ジリジリと船尾に追いつめられていく。
 「あんたたち。泳げるなら、海に飛びこめ! 船の右側に小船を降ろしている。
 助かりたければ、そうせろよ」
 メーアの言葉に、ラムセスも頷いた。
 「ユーリ、先に逃げろよ。こんな事さえなければ、またメンフィスへ連れていけたんだがな〜」
 「何言ってんのよ! ユーリ様は、あんたの妻にはさせないわよ」
 シャラの声に、ハデイも告げた。
 「そうよ、ラムセス。今度会えたら、ただでは、おかないんだから…。
 さー、ユーリ様。お早く、お逃げ下さい」
 ユーリは、血まみれの剣をかまえて睨んだ。
 「あたし、行かないよ。あんたたちを置いて、無事でいようとは思わない。死ぬのなら、みんな一緒だよ」
 みんなの眼差しが、ユーリに集中した。
 突然、風が吹いた。突風だ。上空から、黒い物体が下降してきた。
 「シムシエック! 」
 可愛がっている、ユーリの鷹だ。
 「あれは、艦隊だ。ヒッタイトの軍か」
 ラムセスの声に、海賊たちも慌てた。
 海賊船『クラーヌ』の横には、ヒッタイト連合軍の艦が横付けされていたのだ。
 「あっ、カイル! 」
 「ユーリ! 無事か。紐を投げ入れろ!梯子を掛けろ。船を固定させるんだ」
 海賊たちは、我れ先にと船の防御にやっきになった。
 「ユーリ様!」
 ハデイの悲鳴に、カイルは釘付けになった。
 ユーリの喉元に、団長と名のった男が剣先を押しつけている。
 「ムルシリ2世。このまま手を引いてもらおうか。あんたの寵姫が、命を落とすぜ」
 「親父、やめろ! 」
 メーアの言葉に、ダマスクスは怒鳴り返した。
 「裏切り野郎め。おまえは、鮫の餌食だ」
 風が吹いた。波がざわめいた。
 「皇帝陛下! 」
 キックリの叫び声に、みんなが驚いた。
金色の髪が風に吹かれ、強風がカイルの頬を打つ。
 「ギヤアアアー! 」
 ダマスクスの背に、突風が襲いかかった。血が噴きだし、腰を切られて死んでいた。
ユーリは自由の身となり、艦へ乗り移った。
 「わ〜、竜巻だ! 降参するから、助けてくれー」
カイルが、魔力で風を起こし、竜巻を呼んだのだ。
竜巻は、船を大きく揺らしながら消えていく。
 「ごめんなさい! カイル」
 「ユーリ……」
 無事にカイルの胸へと戻ったユーリは、両腕をその広い背に廻した。
その途端、カイルの体が力なく倒れこんだ。
 「陛下! 」
 ユーリの足下に、カイルの体が横たわっていた。


 ルサファたちは、王宮内に詰めていた。
あの海戦で皇帝陛下が倒れてから、3日にもなる。
 「キックリ、御容態はいかがなんだ? ユーリ様は、どうしていらっしゃる?」
 だが、キックリは首を振るだけだった。
 「意識が、いまだに戻られないんだ。ユーリ様は、付きっきりで看病されておられる」
 王宮内は、また不安な空気に包まれていた。

 ユーリは3日3晩、寝食も忘れて、カイルの寝所から離れようとはしなかった。
あの時、頭が真っ白になって、叫び声をあげる事もできなかった。
キックリたちがいなかったら、ここへ戻っては来られなかっただろう。
それだけ、気を動転させてしまったのだ。
カイルは、自分を助けるために、禁止していた魔力を使いすぎたのだ。
 「水……、ユーリ」
 ウトウトとしたユーリの耳に、声が聞こえた。
 「カ、カイル! 」
 琥珀の瞳が、ユーリを覗いている。
 ユーリは水を口に含むと、カイルの口に注ぎこんだ。
カイルの両手が、ユーリの頭を掴んだ。
 「この〜、イシュタル。命を縮めたぞ。どうしてやろう」
 「ごめんなさい! カイル。あとで何でも受けますから、みんなを呼んでくる。
早く安心させてあげたいの」
 だが、ユーリは身動きできなかった。
 「あいつは、どうした? それに海賊共は?エジプト軍は? 」
 「あいつって、ラムセスの事? ラムセスは、ネフェルトさんと
 娘たちをエジプト船に乗せて帰っていったよ。
 諦めないからなって、言い残して。生き残った海賊たちは、ヒッタイトの捕虜に。
 エジプト軍は、そのままいるよ。また睨み合っている」
 カイルの両手が、ユーリを抱きしめた。
 「ユーリ、このまま眠っておきたい。みんなには、もう少し心配させておけ」
 ユーリの温もりのなかで、カイルは安定した眠りについた。
 「カイル、ごめんなさい」
 いつしか二人の部屋に、きらめく陽光が降りそそいだ。
 穏やかな時間が、これから流れようとしていた。

           <その2、完>


     (また、おまけ)

 きのうも、きょうの夜も、イルは独りだ。
皇帝陛下も、みんなもウガリット。
イルの部屋は、粘土板とパピルスの山が連なっている。
 「くそー、また留守番か。早く帰っていただかなければ、私も困る」
特に、食事とマッサージが……。
 「もーう、いくつ寝ると、発売日ではなかった。ご帰還日………」
指折り数えるイルだった。
(さて、イルはどなたを待っているのでしょう? 分かりますか?)