淡雪


 そのひとは、春の気配が大気の中ににじみ出す頃、
ふと置き忘れられたように天から舞い落ちる雪片に似て、
のばされた指の先をかすめるようにして、消えていった……。




 小路にうずくまる小柄な姿に気づいたとき、声をかけようと思ったのはなぜだったか。
「どうか、されましたか?」
 みあげたのは、白い額に数本のほつれ毛がかかる、黒髪の女だった。
「……鼻緒が、切れまして」
「鼻緒が?」
 袂の手ぬぐいを探ろうとして、ヒッタイト人がそんなものを持っていないことに
思い当たる。出がけにいつも、ハンカチとテイッシュと弁当の所持を確認し、
先生に、バナナはおやつになるのかおかずになるのか訊いてこいと、
うるさいほど念を押していた母はもう亡い。母が在れば、今頃はハンカチの一枚も
差し出せただろうに。
 ミッタンナムワは、おのれの袖口に歯をたて、ぴりりと破り取ると、
それを女のほうに差し出した。
「これを」
「でも、これは……」
 いぶかる女に背を向けて、歩き出す後ろから声がかかる。
「あの、お名前を」
「名乗るほどのものではありません」


 兵営の演習場で、副官が耳元で叫んだのは、数日後。
「なんだあ!?」
 目前で繰り広げられる模擬戦の、木製の剣と剣のぶつかり合う音と怒号が、
わずかの距離の声すら聞き取りにくくする。軍事大国ヒッタイトの、
戦力のおおかたを担うのは歩兵隊と、自負がある。訓練とはいえ、気を抜けば大けがだ。
高台に傲然と立ち、その様を見守る。
「面会人、です、隊長!」
「……面会人?」
「女の人です」
 ここに、押し掛けてこられるほど不義理をした憶えはない。
数人の商売女を思い浮かべながら、首をひねる。
「どこの、店の女だ?」
「そういう感じの人じゃないです」
 言って示した先にいるのは、いつぞやの女。和服姿の背筋を伸ばし、
片手に日傘を、もう片手に包みを抱えて、凛と立つ。すい、と会釈をしてよこす。
「…………!」
 あわてて、傍らの副官を振り返ると、興味しんしんの様だ。
「ここは、まかせたぞ、ウルバンバ」
 言い捨てて、女の側に歩を運ぶ。近づくにつれ、微笑がゆうるり口元を飾る。
「どうして、ここが」
「……知らない方が、おりましょうか」
 ほころんだ唇が、涼やかな声を紡ぎ出す。
「ヒッタイトに、この人ありと詠われた武人が、禿頭なのは、周知のこと」
 目ほどの高さに、包みを差し上げる。
「ご迷惑かとは思いましたが、袖を…………だめにしましたでしょう」
 包まれたものは、真新しい衣。
「これは? 貴女が、縫われた……?」
「不調法なもので、お恥ずかしい」
 言いながら伏せた面に、淡く朱が刷かれた。のぞくうなじの後れ毛が、
ふわふわと風に弄ばれている。面はゆさが伝染ったように、視線を逸らしながら礼を言う。
「ありがとう、かえってお気を遣わせたような」
 思うより、ぶっきらぼうな言葉遣いに、言った自分が慌てて付け加える。
「自分は男所帯だから、これは助かります」
 まあ、と女の口元が驚きを形作る。
「……奥様は」
「おりません、兵舎にいるので不自由はないし、家に帰るのは寝るときだけで」
「……そうですか、お国のために、頑張られているのですね」
 それが習い性なのか、かすかに首をかしげて。背後の騒ぎに気づいたように、
「お仕事中、すみませんでした。私はこれで……」
 深々と一礼すると、きびすをかえす。
「あ、お待ち下さい」
 背に声をかける。
「お名前を」
 これでは、いつぞやと同じだと思う際に、あちらも思い至ったか、
くすりと笑いが漏れる。
「……しず…静と、申します」
 水面を滑る足取りで去って行くのを見送りながら、
嗚呼、まさに呼んで字のごとくの名だと、漢字がヒッタイトに
あろうはずがないのにつぶやいてみる。
 一陣の風雅にさらされて、突然、句など詠んでみたくなってくちずさむ。

 古池や 蛙とびこむ 水の音



 翌日、静が兵舎を訪ねてきたとき、その腕には重そうな包みがあった。
「お口に合うかわかりませんが」
 粗末なテーブルの上に置かれたそれを、荒くれ兵士がのぞき込みひやかす。
「隊長、スミにおけませんね」
「いったい、これはどうしたことで」
 そんな言葉にも、静はおだやかに微笑を返す。
「よろしければ、みなさまも。多く作って参りましたのよ」
 解かれた包みに、おお、と声が挙がる。見れば、巨体を横たえた生き物。
「これは……サイですか?」
「はい、サイの丸焼きです」
 お口に合うか、と繰り返して、また顔をふせる。
「……それは、珍しい」
「丁度、家の前を通りかかりましたので」
 ふせたままの面を見たくて、つい意地悪な口調になる。
「サイは、シロサイもクロサイも、ワシントン条約での絶滅危惧種ですな」
 えっ、と驚き上げた瞳に畏れを読みとり、たちまち後悔する。
「いや、きっとこのサイは、貴女の手にかかったのだから、幸せだ」
 いいながら、サイの額を撫でる。眼窩の上の陥没を確かめて、笑いかける。
「ああ、急所を一撃されている。貴女はなかなか腕がいい」
「……なんだか、誉められてばかり。お口がお上手ね」
 肩の力を抜いたのか、ようやく戻った微笑に、安心する。
女の表情の明暗に一喜一憂するなぞ、いまだ無かったことだ。
 サイに群がる兵士どもを捨て置いて、帰り支度の静をうながし、外に出る。
 遠慮するのを、説き伏せて、兵営を出るまでの小道を並んでたどる。
「あんな騒ぎになって、ご迷惑だったでしょう」
「いえ、奴らも貴女のような方の手料理が羨ましいのです、
それより貴女が騒々しさに驚かれたのではと、心配で」
「兵舎は、慣れておりますもの」
 そう言った静の眸をよぎった陰はなんだったのだろう。
 薄闇に消える細い背を見送りながら、ふと口をついて流れ出すものは。

  柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺

 いつのまにか、優雅になったものだ、と自嘲する。



 いつのころからか日課になったような、夕暮れの小道を、ほとりほとりと歩きながら、
言葉を交わす。兵の中には、面と向かってではないとはいえ、下卑た噂をするものもいる。
 逢うこと拒めば、静を傷つける事はないのだと分かってはいながら、
それの出来ない自分を知っている。
「ご迷惑でしょう」 
 これは、静の口癖のはず。
「……え?」
「俺みたいな……タコあたま男と噂をたてられて」
「私、タコは刺身も酢の物も好きです」
 存外に強い語気に、たじろぐ。毅然と言い切った静は、ふとため息をついて続ける。
「私の夫は、イカと呼ばれておりました」
「……頭がとがっていたのですか?」
「ええ、おまけに口が突き出ていて。でも、優しい人でした」
 遠い目が、夕闇の何処かに、逝ってしまった人の面影をさがしながら。
「ご主人のことが、ききたい」
「……夫は、補給兵でした」
 ああそれで、怖じずに荒くれ男の中に入ってこれる訳が知れた。
「先のミタンニとの戦いの折に……」
「戦死されたのですね」
「いえ、そうではなく。ある野営地で、夜半に用を足そうとして表に出て、
暗闇の中、足を滑らせて、そのまま川に……」
「溺死されたのですか?」
「いえ、イカと海産物の異名をとった人ですもの。上手く泳ぎ着いて岸に上がってみれば、
上着の中に、数匹の魚が……それを持って帰って焼いて食べたのが間違いでした」
「まさか、毒のある魚だったのでは……」
 静はかぶりを振った。
「魚は、とても美味しかったそうです。ただ、小骨が……のどに刺さって。
あの人、それを取ろうとして、ごはんのかたまりを飲み込んだのです。
大きなかたまりを……」
「まさか、ご主人は窒息死?」
 袂で面を覆ってしまった、静の肩が小刻みに震えだす。
「…お気の毒な……」    
言ったきり、ほかに慰めの言葉もかける事も出来ず、
ミッタンナムワは落ちる夜のとばりを見つめ続ける。傍らには、細い嗚咽が漏れ始めていた。

 めでたさも 中くらいなり おらが春




「すまんが、明日の休み、部屋の掃除を手伝ってくれないか」
 多少の気恥ずかしさを感じながらも、副官のウルバンバに声をかける。
「それは、隊長の部屋に来い、との御命令ですか?」
 緊張したように副官が言うのを見て、かぶりをふる。
「いや、命令じゃない、私的なことだ。ダメか?」
「ダメなんてとんでもない、喜んで」
 勢い込んで言うのを、片手で制しながら、続ける。
「他言は、無用だ。お前にだけ、言っておく。じつは……近いうちに静さんを呼ぼうと思っている」
「…静……さんを……?」
「ああ、その、そろそろ…け…けけっ……けけけっ……結婚を前提とした……
その、おつき合いとかいうのを、始めようかと思っている」
 彼女は、まだ夫を忘れてはいないだろう。
それでも、あの人が独りで寂しさに耐えているのを見るのはつらい。
せめて、側にいて震える肩に腕をまわしてやることが出来たら。
「……隊長は……」
「?」
 語調の変わった副官を見やる。見れば、ウルバンバは青ざめ、震えている。
「隊長は、酷い人だ!!」
 そうして、いきなり突進してきた。
副官とはいえ、一般の人間より一回りも大きい体を受け止めて、
ミッタンナムワは呻いた。ウルバンバの拳が、胸を打つ。
「酷い人だ、酷い人だ。俺の気持ちにも気がつかないで、酷い人だ」
「……なに…?」
 涙で崩れた顔をあげると、ウルバンバが訴える。
「俺は入隊したときから、隊長のことを、俺の心の兄貴だと思っていた。
ゾラさまが更迭されて、やっと副官としてお側に仕えることができたのに……
俺の気持ちに気がつかないなんて」
 いきなりの告白に、ミッタンナムワは返す言葉もない。
「俺が、隊長のことを秘かに『マリリン』と呼んでいて、
毎晩眠るときに、おやすみマリリンとか、起きたときに、
おはようマリリンとか心の中で呼びかけていたことも、知らなかったでしょう!」
 がちゃん
 何かが床に落ちる音がして、弾かれたように振り返ると、
そこに立つのは眸をいっぱいに見開いた静の姿。あたりに散らばるのは、
今日の差し入れだったのだろう、ピラニアの姿鮨。びちびちと跳ねるその中に立ち、
静は口元を覆う。
「……静っ……違うんだ、これには訳が!」
 慌てるミッタンナムワの首から腕を外し、ウルバンバは静の前に立った。
 挑戦的な眼が、細い身体を見下ろす。
「……隊長は、譲れない」
 押し殺した声が、歯の隙間から漏れる。頭二つ飛び出た、
大男の顔を見返したのは、思いがけず毅然とした瞳。
「……いつから、こういう関係に?」
「……生まれたときから、結ばれる運命だった」
 顎がはずれたかのようにものの言えないミッタンナムワに視線を移し、
その顔から勝手に何事かを読みとると、 静はくるりと背中を向けた。
「……し…ず……」
 ひくり、と肩が揺れた。
「……お幸せに……」
「違うんだ…」
 ゆっくり振り向いた顔には、涙の痕。
「私、引き際は心得ています。……あまり、恥をかかせないでください……ね…」
 言うなり、猛然と駆け出す。後に残ったウルバンバが、
満面の笑顔でミッタンナムワを振りむいた。
「隊長、これで、俺たち一緒になれますね。これから俺のこと、
二人だけの時はエリザベスって、呼んで下さい」
 両手を広げて近づくかれに、素早くラリアットをかまし、
ふらつくところにローリングソバットとエルボードロップを加えた後、
静の消えた戸口に駆け寄る。
「静っ!!」
 遙か彼方に、舞い上がる砂塵の中、太股まで着物の裾をからげ、
出会う歩兵や軍馬をはねとばしながら走り去る静の姿を、為すすべもなく見送る。
「……行ってしまうのか……見事な走りっぷりだ……」
 いつの間にか、口にすることが癖になった俳句が、また、浮かんだ。

  雀の子 そこのけそこのけ おうまが通る



                       了