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6.釣り

「ラムセス先生、今度の日曜に釣りに行きませんかね?」
 話し掛けたのは、教頭の赤シャツカイルであった。男のくせにきどって
静かな声で話しやがる。俺は視線だけカイルに移して黙っていた。
「キックリ先生と釣りに行く約束をしているんです。せっかくヒッタイトにいらしたんだ。
赤い河でご一緒に釣りはどうです?」
「はぁ、釣りですか……」
 うらなりキックリ君と釣りに行くのはいいが、誘った張本人赤シャツカイルと
一緒というのが気に食わない。俺は浮かない返事を返した。
「おやおや、乗り気じゃないようですね。もしかしてラムセス先生は
釣りをおやりになったことないと……?」
 赤シャツカイルは嫌味な笑いを浮かべた。
 てやんでい! 釣りくらいやったことあらぁ! 赤い河なんてチャチな河、問題にならない。
こんな生ッ白いヒッタイト人に負けてなるものか!
「釣りならやったことあります。いいですよ。今度の日曜に行きましょう!」
 赤シャツカイルごときにバカにされるのも癪なので、思わず行くといってしまった。
 思えば俺もかなりの短気なものである。どうしてせっかくの休みに
嫌な奴の顔を見ながら釣りなんてしなければならないのだろうか……。

 日曜日。
 ハットゥサ郊外の赤い河のまで足を運んだ。
 河とは、空と同じ水色をしているのが普通だと思っていたが、この河は赤かった。
正確にいうと赤茶色をしていた。河の両岸に広がっている土が赤茶色をしていて、
この土が河に溶け出しているため、こんな河らしくない色をしているらしい。
魚はいるのかと不思議に思ったが、どうやらいるらしい。
赤シャツカイルとうらなりキックリ君は釣り糸をたらし始めた。
俺もこんな血みたいな河で釣りなどするのは初めてなので、2人の真似をして釣り糸をたらした。
 しばらくすると、赤シャツカイルの糸がピクピクと揺れた。
「かかりましたよ」
 と、いいながら赤シャツは俺を見ながら得意げに糸を巻き上げる。一匹のハゼがひっかかっていた。
なんだか苦しそうに尾っぽをバタバタさせている。そりゃ赤シャツカイルの
釣り糸になんかひっかかりゃ苦しいだろう。かわいそうに……。俺はハゼに同情した。
「さすがは教頭ですね。お見事です!」
 うらなりキックリ君が激しくカイルを褒めた。たがかハゼ一匹で褒めすぎじゃないのか?
そう思って、俺はハゼを吊り上げた教頭に向かって何もいわなかった。
赤シャツカイルごときがハゼなら、俺様は鯛かマグロを釣ってやる。
腹の中でそう思って数分後、今度は俺の糸がピクピクとうなりだした。
 生き物の感触だ! 嬉しくなって糸を素早く巻き上げると……
 糸の先についていたのは鯛でもマグロでもなく、膨れっ面をした不恰好な魚だった。
 フグだったのである。
「おやおや、ラムセス先生。それはフグですよ。毒があって食べられませんねぇ」
 赤シャツカイルは嫌味の毒素をいっぱい含ませていった。
 ちきしょう! フグだってことぐらい一目見りゃわかるぜ! バカにしやがって!
お前なんざフグ毒で中毒になってしまえ!
 そう言ってやりたかったが、明日も学校に行かなければならない身の上のため、
ぐっとこらえた。何も言わずに釣り糸をはずし、フグを素手で持った。
するとバタバタ暴れやがる。食えないフグのくせに生意気だ! そう思い、俺は
フグを地面にたたきつけた。すると大人しくなった。赤シャツカイルとうらなりキックリは
変な顔で俺を見つめている。素手でフグをつかんだため、なんだか手が生臭い。
赤い河の水でジャブジャブ手を洗ったが、まだ薄く生臭さが残っていた。
もうこんなのはこりごりだ。俺は釣り糸を置いて、その場に倒れた。
空と平行になって手ぬぐいを顔にかけて日よけにして、居眠りすることにした。
 俺が居眠りをはじめてからも、2人はくだらない話をしながら釣りをしていた。
 しばらくすると2人の声のボリュームが少し小さくなった。コソコソと内緒話を
するような声だ。
「まったく……知らないとは罪ですね、バッタですよ……」
「ほほう、バッタですか……」
 俺はバッタという言葉に反応した。なんだか2人はバッタという言葉だけを
強調して俺の耳に入るように言ったように思えた。睨み付けたい衝動に
狩られたが、とりあえず手ぬぐいをかぶったまま動かないで聞いていることにした。
「薔薇蕎麦……団子もですよ」
「薔薇手ぬぐいをもって……本当ですか……」
 薔薇蕎麦、団子、薔薇手ぬぐい。どう考えても俺の陰口を叩いているようにしか
思えない。いや、本人にわざと聞こえるように言っているのだから表口かもしれない。
まったく性格の悪い奴らだ。
 俺は寝たふりをした。そうしていると本当に眠ってしまったらしい、赤シャツカイルの
「ラムセス先生」という声で目が覚めた。
「ラムセス先生、釣りにあまりご興味なかったようですね」
「ええ、こうして綺麗な空気の下で昼寝しているほうがいいです」
 もっとも綺麗な空気のある場所にきても赤シャツなんかと一緒にいては
空気が腐っちまうぜ! と言い返したかったがやめておいた。
 赤い河に赤い大地、きっと天河ヲタクのねねを連れて来たら、さぞ喜ぶことだろう。
前々からヒッタイトに来たいと言っていた。ねねは不器量で皺くちゃの婆さんで、
ちょっと一緒に連れて歩くのは恥ずかしいが、俺の薔薇てぬぐいのことなどは笑わないし、
何があっても俺の味方をしてくれる。いい婆さんだ。
 ねねのことを思い出していると赤シャツカイルが静かに言った。
「あなたはまだお若いから、人と人との付き合いってものがなかなか理解できない
のかもしれませんね。まあ、仕方がない。教師の中には私のように上手いアドバイスを
してくれない者もいる。陥れようとする者もいるのです」
 意味ありげだった。俺はなんなんだこいつは! 心の中で叫んだ。
「一体何が言いたいのですか? はっきり言ってください。僕は数学はできますが、
国語はアヒルでした。教頭のおっしゃっていることは全くわかりません」
 そう言うと、赤シャツカイルは山嵐ユーリに気をつけるように告げた。
 山嵐ユーリは、見かけはおとなしく生徒にも人気のある先生だが、
教師イジメでは悪評高いということだ。そもそも女のくせに理系だなんて高飛車だし、
解せないところがあると赤シャツカイルは解釈する。俺の前任者もユーリのせいで
やめさせられたという。彼女に借りを作ると大変なことになると、うらなりキックリ君も相槌を打っていた。
 俺がこの中学校にきて一番いいやつだと思ったのは山嵐だったのに……。
 こいつらの言うことは本当だろうか? そういえばここへきた初日、俺はユーリから
ローズティをおごられた。まだ給金をもらってなかったときなので
そのまま素直にご馳走になったが……あれも借りの一つになるだろうか。
だった15円だが、女におごられたのは間違いない。噂の真偽はどうあれ、
女などに借りなど作っておいてはエジプト薔薇ムセスの名誉に欠ける。
 明日、学校に行ったら朝一番で借りを返そう。
 家に帰って、俺はそう考えながら床についた。


7.喧嘩

 次の朝、俺はいつもより15分早く目が覚めた。
 早めに学校に行って、山嵐ユーリの来るのを待った。
 うらなりキックリ君が来た。次に赤シャツカイルも来た。怪しい理科教師コンビ、
ナキアとウルヒも一緒に出勤した。校長のホレムヘブ狸も偉そうな挨拶をしながら来た。
 しばらくすると、職員朝礼のベルが鳴った。俺の隣はまだ空席だった。山嵐ユーリの席である。
いつもベルの15分前には来ているというのにどうしたことだろう。俺が知ってる限りでは
遅刻なんてしたことがない。今日は欠勤か? いや、連絡も何もないから違うであろう。
 朝礼が終わると、赤シャツカイルが近づいてきて、俺の耳元で
『昨日のことは隠密にお願いしますよ』と、女みたいな声でいった。
なんだか、うなじの部分がぞくっとした。やっぱり嫌な奴だ。こんな奴は沢庵石でもつけて
ナイル河に沈めてやりたいくらいだ。
 一時間目の授業がなかったので、俺は机の上に15円を置いてぼうっと見つめていた。
せっかく借りを返そうと張り切って学校に来たのに、山嵐ユーリがいないのでは拍子抜けだ。
軽い溜息をつくと、隣の机でドンという音がした。音の方を向くと、
黒い髪黒い瞳の女が疲れた顔で俺のほうを見ていた。山嵐ユーリだった。
 早く返そう。俺は机の上に置いてあった15円を再び握り締め、突き出そうとした。
それより早く、相手のほうが先に口を開いた。
「一体どういうことなの」
「どういうことって何がだ?」
 山嵐ユーリの黒い瞳は不機嫌そのものをあらわしていた。
「私が紹介した下宿、今日限りで出ていって!」
「急に何を……下宿を出ようが出まいが俺の勝手だろう」
「勝手じゃないわ。あなた自分がどういうことをしたのかわかっているの?」
 山嵐の声は徐々に大きくなっていった。職員室に残っている他の教師たちが
チラリと俺たちに視線を向ける。
「下宿でどう暮らそうと俺の勝手だろう……」
「そういう考え方だからいけないのね。じゃあ言ってあげるわ。あなたは
あの下宿では乱暴でもてあまされているのよ。それも、おかみさんに
足をふかせるだなんて……いくら下宿のおかみさんと言っても、あなたの下女じゃ
ないのよ。足を出してふかせるなんて、図々しいにもほどがあるわ!」
 何デタラメ言ってやがるんだ、この女! 俺の体内を流れる血液は
一気に沸点に達した。
「俺がいつ足をふかせたんだよっ!」
 思わず声が高ぶった。皆、俺たちのほうを見ていた。山嵐ユーリは辺りを見まわし、
声を小さくした。
「とにかく、あの下宿から出て、まったくあなたのせいで遅刻しちゃったじゃない……」
「誰がおかみさんに足をふかせたってお前に言ったんだ……」
 くやしくてオッドアイの色が反転しそうであったが、俺は静かにユーリに聞いた。
「それは……とにかく今日限りで出てくれれば文句はないわ……」
「いいだろう。出てやる。誰がそんなホラ吹き下宿にいるものか! それよりこれを取れ!」
 俺は握り締めていた15円をユーリの前に突き出した。
「な、何よこれ……」
「ここに最初にきたときにおごってもらったローズティ代だよ」
「ローズティ代……あれはあたしがおごるって言ったじゃない。今ごろどうして……」
「今ごろでもなんでも、返すものは返すんだ」
「15円くらいいいわよ。あのときはまだお給料もらってなかったんだし」
 ユーリの目の中で黒い瞳が泳いでいた。びっくりしているようだった。
「俺はお前なんかにローズティをおごられる因縁なんかないからな!」
「因縁……? いいわ。そんなに15円が気になるんだったら取るわ。
その代わり、下宿は出てね」
「いてくれとたのまれてもいるもんかっ!」
 ユーリは俺のオッドアイを見つめながら、15円を自分の机の上に置いた。
俺も負けん気が強いが、この女も相当強いと見える。数学教師というものは
真髄こういうものなのか? そう思ったりもしたが、こんな女と一緒の囲いに
入ると思うとまた胸くそが悪くなった。
 しばらくすると、二時間目の始業のラッパが鳴った。
 山嵐ユーリも俺も喧嘩を中断して教室へ向かった。




続く