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1.坊っちゃんとねね


 親譲りの無鉄砲で子供のときから損ばかりしている。
 幼年学校の時分、近所のピラミッド公園のピラミッドに登り、地面から5,6メートル
離れた空中から地平線を眺めていた。妹たちに「いくら威勢のいい兄さんでも、
そんな高いところからは飛び降りることはできないでしょう。やーい」と冷やかすので、
そのまま飛び降りてみた。……一週間、腰を抜かして寝込んだ。
案の定、父親が大きな目をして「ピラミッドから飛び降りて腰を抜かすやつがあるか!」
と怒鳴ったので、「この次は腰を抜かさずして飛び降りて見せます」と言ってみた。
 親、姉妹はもちろんのこと、親戚、はみんな俺のことを変わり者扱いした。
町内では乱暴者の悪太郎と評判になった。。いたずらで乱暴で負けん気が強くて、
行く先が案じられる、将来ろくな者にならないと、言われていた。
 ご覧のとおりの始末である。
 そのうち父が死に、母と俺と姉妹たちだけになった。もともとラムセス家は生活に
困らないほどの富はあったし、父の生命保険も入ってきたので困ることはなかった。
姉たちはボチボチと嫁に行き始め、妹たちも「兄さまよりずっと優しくて
カッコイイ彼氏を見つけたわ」と皮肉を言う始末であった。
つい頭に血が上り、「妹のくせに生意気なこと言うのでない!」と、
言葉と同時に手も出てしまった。――妹は平手打ちにあった頬を抑えながら
母に泣きついた。母は俺を勘当すると言った。
 その時はもう仕方がないと思って、先方の言うとおり勘当される気でいた。
だが、10年来使っているねねという下女が「坊っちゃんを許してくださいまし」と、
泣いて母に謝った。ようやく怒りが解けた。解いてもらわなくとも全く
構わなかったのだが、俺なんかのために頭を下げた、
このねねという下女が気の毒でならなかった。
 この下女はもとは病院に臨床検査技師として勤めていた由緒のある者だったそうだが、
江戸幕府崩壊のときに零落して、ついには奉公までするようになったと聞いている。
だから婆さんである。婆さんだから仕方ないことを大目に見たとしても、不器量だった。
この婆さんがどういうわけか、「坊っちゃん、坊っちゃん」と、俺のことを呼び、
非常にかわいがってくれた。この俺をむやみに珍重してくれた。珍獣ではない。
俺は到底、人から好かれるたちでなかったから、他人から薔薇のトゲのように
扱われることをなんとも思っていなかった。
かえって、ねねのようにちやほやしてくれるのを不信に思った。
 台所で人のいないときに「あなたはまっすぐでよい御気性だ」と褒めることが
時々あった。本当に「よい御気性」とやらなら、ねね以外の人にも好かれてもよさそうな
ものだが、現実はそうではない。俺はお世辞は嫌いだと返すと「だからいい気性なのです」と
嬉しそうにいう。仕方がないから、
「確かに今日はいい気象だな。晴れてる」と、雲ひとつない窓の外を見て言った。
ねねはクスクスと小さく笑った。
 父が死んでからはいよいよ俺をかわいがった。自分の小遣いで飴やきんつばなどを
買ってくれたり、寒い夜は蕎麦湯を持ってきてくれたりした。鉛筆も帳面ももらった。
薔薇模様の腰巻にバンダナももらった。家族は俺の薔薇好きを嫌ったが、ねねだけは
「あなたには薔薇がたいへん似合います」と言って、庭にこしらえた薔薇の庭を
重宝してくれた。一緒に薔薇の世話もしてくれた。
他にも金を3シュケルばかりくれたこともあり、いらないと言ったが
ねねは無理やり俺のポケットに押し込んだ。仕方ないので借りておいた。
心の奥底では、この3シュケルはたいへん嬉しかった。この3シュケルを何に使ったかは
忘れてしまった。そのうち返すよと言ったっきり、返していない。
今となっては10倍にして返してやりたいが、もう返せない。
 また、ねねは俺が立身出世をして立派になるものと思い込んでいた。
「あなたは将来ファラオにもなれる器です」とまで俺を過大評価していた。
あまりになるなると言うので、俺はなんだか、何かになるのだという気がしてきた。
今考えるとばかばかしい。こういう婆さんは自分の好きなものは偉い人物になって、
嫌いなものは落ちぶれると信じきっているのだ。こんな婆さんにあってはかなわない。
それもねねは、独立して立派な門のある家を持つようになったら、
自分を下女として置いてくださいと何度も繰り返して頼んでいた。
俺もなんだかうちが持てるような気がして、うん、置いてやろうとだけ返事をしておいた。
「坊っちゃんがお金持ちになったら、ねねにパソコンも買ってくださいね」
というので、「お安い御用だ」と返事をしておいた。
ねねは不器量な顔をゆがませて嬉しそうに笑った。

 中学を卒業し、俺の無鉄砲は母とも折り合いが合わず、
女ばかりの所帯にいることもあきあきしていたので、寮のある学校に入ろうと思った。
文学や詩歌はガラではないので、それ以外のことを学ぼうと思った。
散歩をしていると、物理学校の前に生徒募集のチラシが出ていた。
これも何かの縁だと思い、寮も完備されていたので、俺は物理学校に3年間席を置くことにした。
寮に入っている間の薔薇の世話はねねに頼んだ。
 3年間、まあ人並みに勉強はしたが、文学や詩歌ほどではないが、やはり性に
合わなかったらしく席次はいつでも下から数えた方が早かった。
それでも3年経ったら卒業してしまった。
 卒業してから8日目に校長から呼び出された。話はこうだ、ヒッタイトのハットゥサで
中学校の数学教師をしないかと言うのである。ここエジプトと比べたら田舎だが、
給料は月に40シュケルもらえるという。卒業してから就職の当ても何もなかったから、
素直に校長の話を受けることにした。今思えば、これも親譲りの無鉄砲からと言えよう。
 ねねにヒッタイトのハットゥサに行くと言ったら、随分、失望した様子であった。
いつもボーっとしていたが、かわいがっていた坊っちゃんがいなくなると思ったのか、
更に呆けていた。少しかわいそうになって「行くことは行くが、じきの戻ってくる。
来年の夏休みには戻ってくるさ」と慰めてやった。それでも元から変な顔をもっと
変にしているから、「何か土産を買ってきてやろう。何がいい?」
と聞いてみると、「京都の八つ橋が食べたい」と言い出した。京都? 八つ橋?
一体なんだそれは? 方角が違うんじゃないか?「俺が行くところには八つ橋は
なさそうだよ。京都よりも、もう少しエジプトに近い場所だよ」と言って聞かせたら、
「ではインドより向こうですか?手前ですか?」と返したので、とりあえず手前だと
言っておいた。随分もてあましたものだ。
 ヒッタイトへ出立の日、ねねは朝から俺のところへ来て、いろいろと世話を焼いた。
歯磨きは歯ブラシにハンカチ、ちり紙を俺の鞄に無理やり押し込んだ。
「坊っちゃんの大切になさっている薔薇の世話はお任せください」と
俺を安心させるように言った。確かにねねに任せておけば安心である。
 プラットフォームに着いて、俺は電車に乗り込んだ。指定席の窓の外に、見送りの
ねねがまっすぐ立っていた。
「もうお別れになるかもしれません。坊っちゃん、ずいぶんごきげんよう」
 ねねの目には涙がいっぱいたまっていた。
俺は鞄の中にしまってあった薔薇の花を一輪、ねねに渡した。
「まあ……坊っちゃんから薔薇をもらえるなんて! ねねは幸せでございます」
 ねねはその場でボロボロ泣き始めた。相当嬉しかったようだ。
 俺は泣かなかった。しかしもう少しで泣くところであった。
涙がこぼれ落ちる3秒前に列車が動き出し、なんとか涙を見せずに去ることができた。
もう大丈夫だろうと思って、窓から首を出して振り向いてみたら、やっぱりねねは
じっとこちらを見つめていた
 なんだか大変小さく見えた。



2.ハットゥサ中学校


 ウガリットまで汽車で行き、そこからの旅路は船に乗った。
ぷうといって汽船が止まると、船頭のズワという大男が岸に船をつないだ。
ズワという男、真っ裸に赤いふんどしをしめており、頭には皮で出来た頭巾を
かぶっていた。皮の色が人間の皮膚の色と同じように見えたが、あまり深く考えない
ようにした。
 岸には粗末な小屋が一軒あるだけで、ここが港だというのだから馬鹿にしている。
赤フンの皮かぶり男が俺の荷物を運んでくれた。運んだはいいが、
チップを求めてきた。たかが荷物運びくらいチップとはふてぶてしい。
腕力には自信はあるが、得体の知れぬ土地だし、長いものに巻かれるように
仕方なくチップを渡した。全く野蛮な所である。
 船から降りて、磯に立っている鼻たれ小僧をつかまえて「中学校はどこだ?」
と聞いた。鼻は垂れていたが、金髪おかっぱの綺麗な顔をした小僧だった。
鼻さえ垂らしていなければ、どこかの国の王子様といっても通用しそうだ。
後から知ったが、小僧の名はジュダというそうだ。
小僧はきょとんと俺の顔を見つめ、「知らんがな」と言った。
雀の額ほどの町内のくせに、中学校のありかも知らない奴があるものか!と
腹を立てていたら、顔に傷があり腰のあたりまで黒髪が伸びている男が「こっちだ」と声をかけた。
荷物も持ってくれ、どうも俺の出迎えの奴らしい。出迎えなら早く声を掛けやがれ!
また腹が立ったが、素直についていくことにした。顔に傷のある黒髪ロン毛男の名は
マッテイワザといい、昔は某国の皇太子だったという。今は落ちぶれて
港で赤帽をしているのだと、後になって知った。
 旅館に案内された。夜も遅いから、今日は休んで明日の朝学校へ顔を出すように
言われた。もっとももだ、エジプトからこんな田舎に連れてこられて俺は疲れていた。
旅館のオヤジにどこからおいでで?と聞かれたので「エジプトだ」と答えた。
「エジプト、それはよいところでしょう」と言うので、「ここよりはずっとましだ!」
と素直に答えてやった。
 すぐに蒲団に入ったが、なかなか寝付けなかった。この旅館はやたらとやかましい。
女ばかりのラムセス家もやかましかったが、その3倍くらいやかましい。
目を瞑りうとうとしていると、ねねの夢を見た。ねねが京都の八つ橋をむしゃむしゃ
食べている夢だ。どんどんねねは食べる。あんまり食べると太って今よりもっと
醜くなるからやめろと注意すると、口の端につぶあんをつけながら、
「明日からマイクロダイエットをするから大丈夫です」とわけのわからないことを
言っていた。

 朝になって学校に行った。制服を着た生徒たちの間をくぐりぬけて行った。
 門のすぐ側にあった受付で名刺をさしだしたら、校長室へ案内された。
校長の名前はホレムヘブ。色が黒くて(←人のことは言えないが)中年太りで
腹がぽっくりとでていて黒狸のようなオヤジだった。辞令を渡され、
「精をだしてせいぜい働いてください」とニヤニヤしながら俺に言いやがった。
それから30分ほど教育についてお談義がはじまった。もちろんいいかげんに聞いていたが、
途中で俺はとんでもない所へ来てしまったと気づいた。生徒の模範になれの、
教師として尊敬されなければならないの、学問以外にも徳化のある趣味を持って
精を出さなければいけないの、むやみやたら法外な注文ばかりする。
そんな偉い人間が月給たった40シュケルでこんなド田舎に来るわけがなかろう。
俺は嘘をつくのが大嫌いな気性なので
「俺はあなたのおっしゃるようには到底出来ません。今すぐ辞令をお返しします」
 つい30分ほど前にもらった辞令を、ホレムヘブ狸の前につき返した。
 狸は目をぱちくりさせてじっと俺を見つめた。
「今のはただの希望だ。あなたが希望のとおりできないのはよく分かってるから
心配しなくてもいい」
 ホレムヘブ黒狸はおかしそうに笑った。
 よく知っているのなら、はじめから言わなければいいものを……。
 やっぱり俺はとんでもない所へ来てしまったと思った。
 しばらくして始業のラッパが鳴った。ドア一枚挟んだ職員室がガヤガヤしだした。
教員たちが職員室に朝礼のため集合したのだ。
 校長と一緒に職員室へ入った。今日から同僚となる教員たちは、中央に集合している
机についたまま、申し合わせたように俺を見た。教員は全部で15人。
校長に言われ一人一人に挨拶をした。
 挨拶をしたうちに、教頭のムルシリという男がいた。カイル=ムルシリ。
こいつは文学士で、大学の卒業生なのだから偉い人なのだろう。背は俺と同じくらいなので
高いほうだ。認めたくなかったが、俺に匹敵するほどのいい男だった。こんなド田舎、
俺以上のルックスを持っている奴なんていなかろうと、鷹をくくっていたのが
間違いであったであった。目鼻立ちが整った逞しくセクシーな男だった。
俺が女だったら抱かれたいとも思うかもしれない。容姿はさておきこの男、
学校だというのに、シルクの真っ赤なシャツを着ていた。
当人の説明によれば、赤は薬になる色だから健康のためにわざと着ているという。
赤、あか……。薔薇の赤。俺はムルシリという男に敵対心を覚えた。
赤は薔薇の色。俺様の色だ! 本当は薔薇模様の服を着たかったが、
教師という職柄、薔薇柄ネクタイだけに留めたのに、こいつは真っ赤なシルクのシャツを
着ている。てめーは王子様か? ミッチーか? と、問い掛けたかったが、
とりあえずやめておいた。赤シャツカイル、とりあえず侮れない奴がいると覚えておいた。
 それから英語の教師にキックリという地味で顔色の悪い男がいた。
そばかすがポツポツあり、糸目で蒼い顔をしていた。小学校のときにも
同じ蒼い顔をした同級生がいたが、ねねに「なぜ蒼い顔をしている?」と
聞いたら「うらなりの(未熟で色艶の悪い)唐茄子(かぼちゃのこと)
ばかり食べているからですよ」と言った。このキックリという英語教師も
うらなりばかり食べているに違いない。俺は蒼い顔をした英語教師のことを
うらなり君と覚えることにした。
 次に俺と同じ数学教師で、ユーリという黒髪の女教師がいた。黒い瞳は
黒曜石のようで美しかったが、細い銀縁の眼鏡をかけてきつそうな印象を受けた。
髪はくせ毛なのか? 女のくせにボワボワだった。山嵐のような髪型をしていた。
背もたいそうちんちくりんなので、生徒の中に混じったら
誰が生徒で教師なんだかわからないだろう。
「あなたが新任の先生ね。どうぞよろしく」
 俺が挨拶すると、きつそうな黒曜石の瞳が笑った。決して美人でないが、
この笑顔はかわいいと思った。そこへ教頭の赤シャツカイルが、
山嵐ユーリと俺の会話間に割って入ってきた。
赤シャツは随分上機嫌で話していた。さては山嵐に気があるんだな、と睨んだが
余計なことは考えないことにした。
 後でこの山嵐が一番生徒に人望が厚いと知った。
 他には紹介もしたくないが、理科の教師でナキアとウルヒという人物がいた。
毎日理科室であやしい実験をしているらしいので、巻き込まれないよう
気をつけなければならないと他の教師からアドバイスを受けた。


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