nene's world オリジナル小説
エミリアノート


医学の歴史をラノベ風です。
舞台は17世紀くらいの地中海沿岸、イタリアあたりの架空の国。
一応恋愛ものベースで、顕微鏡、尿検査、感染症などなど
ねねの得意分野を盛り込んでいきたいと思っています。
参考にしている史実等もありますが、かなり適当なので詳しく突っ込まないでください(笑)。



1ページ目

1.デイジーの花  
2.翡翠の間 
3.肖像画 
4.アルフレッドからの罰 
5.掃除 



    



1. デイジーの花

 大理石の床に石造りの大きな柱。深い溝が掘られている円柱型の柱は、天井高くそびえている。
 柱の頂上には、対になった渦巻き状の彫刻が掘られている。
 古代のギリシャ神殿を思わせる太い柱は、王宮の長い廊下に等間隔に並んでおり、
格調高く、建物そのものが荘厳な雰囲気であった。
 エミリアは王宮の高い天井を見上げて、呆然とする。
「さすがは王宮の中心部。同じ敷地内とはいえ医学校とは大違いだわ」
 長い廊下にエミリア以外の人影はなく、歩く度に靴の音が高い天井に響いた。
 地中海沿岸にある小さな国、サレルノ王国。
 海に面した国は様々な人種の者が集まり、多くの物や情報が飛び交う要所であった。
 特に医学や薬学が発展し、サレルノ王国の王宮内に病院と医学校が建てられたのは、
100年ほど前になる。国内はもちろん、国外からも医学を志す者が集まり、
医学校から多くの医師や薬剤師が輩出された。誰でも入学できるわけではなく、厳しい試験があった。
 優秀な者を集めるため、万人に門戸は開かれていた。
家柄や身分に関係なく12歳以上の男女ならば、誰でも医学校を受験することができた。
だが、厳しい試験に合格するためには、小さな頃から環境の整った教育が必要であり、
実際に入学できるのは貴族の子息や平民であっても金銭的に余裕のある者が大多数であった。
 代々医者の家系のエミリアは12歳の時に医学校の入学試験に合格し、
5年間、医学の勉強と研修を積んだ。
 医師の中でも最高峰の宮廷医の試験にも合格し、17歳になったエミリアは、
春から王宮で宮廷医の見習いとして働くことになった。
今日は宮廷医として、王族方への挨拶の式典があり、王宮内部にまで来ていたのである。
 王宮は大きく分けると4つの区画に別れていた。
 敷地内の最奥から王族たちの住む居住区、王や大臣たちが仕事をする政務区、
王宮に勤める者たちが住むの居住区、許可があれば一般の者も出入りが許される開放区に別れていた。
 医学校と併設する病院は解放区にあり、城門から一番近い場所にあった。
 今日は政務区にある翡翠の間と呼ばれる広間で、宮廷医として王族方に挨拶をする式典があった。
 王宮の内部、王族や大臣が政務を執り行う政務区まで来たのは初めてだった。
 高い柱が並ぶ廊下でエミリアは招待状にあった地図を広げる。
「翡翠の間ってどこなんだろう? やっぱりサラと一緒に来ればよかった」
 エミリアは招待状を見て首をかしげた。
 幼馴染のサラは、医学校で学んだ同級生だ。
 背が高く、誰もが羨むブロンドの髪と珍しい緑色の瞳を持つ美人だ。
 丸顔で童顔、何の特徴もない黒い髪の自分とは大違いである。
サラをずっと見ていると自分の出生を呪ってしまうが、エミリアの母は若い時、宮廷医をしていて、
美人で評判だったという。おかしいと思ったがそこで父の優しいお月様のような笑顔が浮かんだ。
 エミリアの物心がついた時から、頭頂部に毛髪は残っていなかった。
笑うと糸のように目が細くなり、その笑顔はお月様そのものであった。きっとこの丸顔は父に似たのであろう。
 母も随分前に、この王宮で宮廷医をしていた。
 産科と婦人科を担当していたらしく、腕が良いと評判だったという。
宮廷医を辞めた後は医学校で教師をしていたらしい。
エミリアが入学する一年前に辞めてしまったので、エミリア自身は医学校で母から教わったことはなかった。
 王宮にはまだ母のことを知っている者がいるという。母の名に恥じないよう、これから努めなければならない。
 エミリアは王宮の長い廊下を見つめながら緊張した気持ちになる。
 宮廷医としてこれから頑張るにしても、まず今日は翡翠の間に辿り着かなければならない。
 誰かに道を聞こうにもエミリアのいる廊下には全く人影がなかった。
 今日は式典の為、くるぶしまであるドレスを着ていた。
スカートの広がりは控えめで、襟と袖口と裾に少々のレースがあるシンプルな白のドレスだ。
 医学校には制服があり、いつもは膝丈の白いワンピースの制服に、
実習や研修のときには上にエプロンを羽織っているだけの恰好だった。
着慣れない裾の長いドレスは歩きにくく、気をつけて歩かないと裾を踏んで転んでしまいそうだった。 
 エミリアはドレスの裾を持ち上げながらゆっくり歩いていると、中庭らしき庭園が見えてきた。
 色とりどりの花がエミリアの視界に飛び込んできた。薔薇や百合、カトレアなど荘厳な王宮ぴったりの豪華な花が咲いていた。
 エミリアは庭園に一歩足を踏み入れた。
 庭師により手入れがなされていると思われる庭は、さすがは王族の住む王宮と言わんばかり美しかった。
花と緑のバランスが絶妙で見る者の目をちゃんと楽しませてくれる。
まだ冬の寒さが残っているため、葉をつけていない樹々が何本かあった。
もう少し暖かくなれば、この庭園はもっと色とりどりの花が咲き乱れ、目を楽しませてくれることだろう。
季節が進んでから、もう一度、この庭を見たいと思った。
 美しい庭園を満喫し、中庭から廊下に戻ろうとしたときだった。
中庭の隅に薔薇でも百合でもない花が咲いている一角を見つけた。
豪華で存在感のある花たちとは対照的な茎の細い小さな白い花が植えられていた。
両手を広げたほどの狭い範囲にその花は咲いていた。エミリアは白い花に近寄る。
「デイジーの花だ!」
 中心部が黄色く、その周りを真っ白な細い花びらが取り囲んでいる小さな花である。
どこにでも咲いている野草で王宮でなくても見られる花だ。
 黄色い太陽を真っ白な花びらが囲む形をしたデイジーの花は、
見ていると元気になれるような気がして、エミリアが好きな花だった。
 薔薇や百合が咲き乱れる庭園にどうしてデイジーの花があるのだろう? 
 不思議に思ったが、薔薇や百合などの豪華な花よりも、
どこにでも咲く野草であるデイジーの花の方が、エミリアにとっては親近感があった。
美人なサラだったら、薔薇や百合のほうが似合うけど、童顔な自分はせいぜいデイジーの花が精一杯だろう。
今日の記念に、このデイジーの花を押し花にして栞を作ろう。
 デイジーの花壇の前に座り込んでいたエミリアは、目の前の花を一本摘み取った。
黄色い太陽を囲むように真っ白な花びらを見て、思わず笑みがこぼれてる。
「おい、そこで何をしている」
 背後から声をかけられた。男性の声である。
 デイジーの花を積んだエミリアの心臓は、跳ね上がった。
 誰もいないと思って油断していたところに知らない声が飛び込んできた。
 王宮を警備する兵士であろうか? 勝手に庭園に入り、花を摘んでしまったことを怒られるのかもしれない。
 エミリアは恐る恐る振り返る。
 背の高い男が花の向こうに立っていた。兵士ではない。
 王宮内を警備する衛兵用の制服姿ではなかった。
 制服ではなく、金の縁取りのある詰襟に、肩に装飾のある上着を着ていた。兵士よりも身分が高そうな恰好である。
 エミリアより年上であることは確かだが、まだ若い男だった。20歳前後であろうか?
 若い男は庭園の花をかき分け、エミリアの目の前に立った。
 背が高い。小柄なエミリアと頭一つ分くらい差があった。しっかりと見上げなければ、じっくり顔は見えなかった。
 はっきりとした凛々しい眉の下にアイスブルーの瞳があった。
 スッと通った鼻筋の下にくっきりと輪郭のある唇。特別、目が大きいとか際立ったところはないが、
全体のバランスが良く、上品な顔立ちをしている。短めの金髪は癖があり、前髪のうねりが少年の幼さを残している。
 目の前の男性が格好いいか、そうでないかの2つにしか分類できないとすれば、間違いなく前者に分類できるであろう。
 無言でしばらくの間、見つめていたら、相手も同じくらいこちらをずっと見ていることに気づいた。
 エミリアは恥ずかしくなって慌てて目を逸らした。摘み取ったデイジーの花が視界に入る。
「あっ! すみません。勝手に花を摘み取ってしまって……。
素敵な庭園の中に可愛らしいデイジーの花があるなと思って摘んでしまいました。本当にすみません」
 エミリアは額に膝をくっつける勢いで深く頭を下げた。
 花を持ったまま顔を上げると、真正面にアイスブルーの瞳が迫る。
相手もじっとこちらを見ていたので、一直線に視線が合ってしまった。驚いてすぐさま視線をそらす。
顔面の温度が上昇し、心臓が喉元で鳴っているような気がした。
「いや、別に花を見ているのは構わないし、一輪ぐらい摘み取っても問題ない」
 アイスブルーの瞳が優しく笑った。笑うと微かにたれ目になった。
そんな所も予想外に可愛く感じ、また心臓がドキリと鳴る。
初対面の人にそんなことを悟られてはいけないと思い、必死に真剣な顔に戻そうと試みた。
「いいえ、勝手に摘み取ってしまったことはいけないことです。花はお返しします!」
 摘み取ってしまった花を今更、花壇に戻しても仕方がないのだが、
このまま持ち去ることは気が引ける。エミリアは摘み取った花をデイジーの花畑の中に戻そうと後ろを向いた。
 白い花びらが重なる花壇の中に、摘み取った花を置こうとした時だった。背後から勢いよく腕を捕まれた。
「えっ?」
 エミリアは振り向くとアイスブルーの瞳が数センチメートルの距離にあった。
患者以外で、こんなに至近距離で男の人と接したのは初めてだった。エミリアは驚いて目を見開く。
 エミリアの手からデイジーの花を抜き取り、耳の横にちょんとデイジーの花をさしてくれた。
エミリアは耳の横を手でそっと触れて確認する。茎が髪の間に挟まっていた。
「花はこのまま持って帰っていい。黒い髪に白い花がとてもよく映える」
 首から上の体温が急激に上昇した。
 若くて凛々しい顔立ちの男の人に言われたことがなかったので、とっさに言葉がでなかった。
「あ、ありがとうございます」
 やっと喉の奥から声を出す。顔面の温度がどんどん上昇していくのがわかった。
「名は何という? 私はレオナルドだ」
「エミリアと申します」
 レオナルドに向かって深く頭を下げた。
「他にも薔薇でもカトレアでも一輪ぐらいなら何でも持って行っていいぞ」
「いいえ、デイジーだけで十分です。薔薇やカトレアも素敵だと思うけど、私はこの小さなデイジーの花が好きです」
 エミリアはレオナルドにさしてもらった花に触れながら笑った。
「それは私と同じだな。実はこのデイジーは母が植えたものなのだ」
「そうなんですか! レオナルドさんのお母様が植えた花を勝手に摘み取ってしまって本当にすみません」
 エミリアはもう一度頭を下げた。
「いや、母が植えたのは何年も前だ。だから気にすることはない」
「はい……」
 レオナルドはエミリアの耳にさしたデイジーの花に触れ、そのまま黒い髪を軽く梳いた。
「そうだ! レオナルドさん! 翡翠の間ってどこですか? 私、今からそちらへ行かなければならないのです!」
 エミリアは本来の目的を思い出す。まだ時間に余裕はあると思うが、王族や偉い大臣たちが集まる式典に遅刻しては大変だ。
「翡翠の間ならこの先をまっすぐ行って、2回右に回ったところだ」
 レオナルドはエミリアに道を教えた。
「あーっ! エミリア見つけた。こんな所にいた!」
 大きな声にレオナルドとエミリアは同時に振り向く。
 庭園の薔薇の花の向こうにサラが立っていた。エミリアと同じように裾までドレスを着ている。
背の高いサラは真っ白なドレスではなく、薄いクリーム色のドレスだ。
白よりもクリーム色の方が背が小さく見えるらしい。腰まであるブロンドの髪に整った目鼻立ち。
誰もが振り向く美貌は、庭園に咲く薔薇の花を背景にしても負けないくらいの美しさであった。
「サラ!」
 エミリアが嬉しそうな声を上げる。
 レオナルドに「ありがとうございます」と丁寧にお礼を言い、サラに駆け寄った。
「式典に遅れるよ、エミリア!」
「ごめん、迷っちゃって……」
 エミリアはサラに並び廊下を歩いてゆく。
「なんでこんな単純な道で迷うの? 地図もあったでしょ」
「うん、そうだけど迷った」
「まったくもう……ねえ、今の人、誰?」
 サラがそっと後ろを振り返る。エミリアも一緒に振り返ると、レオナルドはまっすぐにこちらを見ていた。
軽く会釈すると、レオナルドの首も少しだけ縦に動いた。
「ちょっと助けてもらったの」
「ふーん。あれ? その頭の白い花は?」
 サラが左の耳にさしてあるデイジーの花に気づいた。
「さっきの人……レオナルドさんにもらった」
「そうなんだ。白いドレスに似合ってる。いいわね」
「ありがとう」
 レオナルドに言われたことと同じような褒め言葉をサラに貰ったが、
顔が熱くもならないし胸もドキドキしなかった。
 おかしいと思ったが、深くは考えず、サラと一緒に翡翠の間へ向かった。


2.翡翠の間

 翡翠の間に到着したエミリアは、中央にある椅子に座って静かに待っていた。
 今年、宮廷医になる者は4人。エミリアとサラの他に男性二人だ。
エミリアより5つ年上の22歳の青年と、もう一人は40代の男性だった。
 医学校では幅広い年齢の者たちがいた同時に学んでいた。
身分や家柄に関係なく、12歳以上ならば受験の資格はあったが、その門は狭く、例え入学できても、
厳しい試験に留年を繰り返す者も多かった。10代の者もいれば、親子ほど年の離れた者もいた。
 エミリアのように若い医師よりも、年を重ね落ち着いた雰囲気の医師の方が患者からは評判が良いと聞いたことがある。
 これから宮廷医としてやっていくために、自身の振る舞いには十分に注意しなければならない。
 今日の式典はその第一歩である。目の前に王族方も並んでいる。
失敗しないよう、失礼がないようにしなければならないと思い、そっと背筋を伸ばした。
 定刻になっても式典は始まらなかった。
 翡翠の間の入口付近で、数人の者が行ったり来たりしていた。
 王と王妃は中央にある玉座で姿勢を正している。その脇の席に10人以上いる王子王女たちが2列になって座っていた。
 前に5人とその後ろにも同じくらいの人数の王子王女が座っていた。
後列の王子王女の顔は前列の者に隠れて見えなかった。
 前列の王と王妃に一番近い席が空いていた。まだ一人到着していないようである。
「皇太子殿下のご到着です」
 ゴトゴトと大理石の床と滑車のこすれる音が翡翠の間に響いた。
 音の方を振り向くと、扉から台車に乗った皇太子が入ってきた。
 使用人が二人がかりで台車を押している。一番前の開いている席に、
使用人たちの手を借りて、台車から大儀そうに腰をかける。
 ふとエミリアは皇太子の指先と足に目が行った。指の何本かと右の足首に包帯を巻いていたのだ。
「遅いじゃないか、アルフレッド」
 あご髭に白髪の混じる国王が眉間に皺を寄せて皇太子に言った。
「申し訳ありません。準備と移動に少し時間がかかりまして遅くなりました」
 アルフレッドは軽く頭を下げる。
 立ち姿を見たわけではないが、アルフレッドはそう高くない身長のように思えた。
四角い顔に一重まぶたの目。赤ら顔で顎と首の境目がなく、小太りな皇太子であった。
第一王子であるアルフレッドは確か25歳のはずだ。年よりも老けて見える印象だった。
 台車を引いてきた使用人は退出したが、頭から黒いマントを被った男がアルフレッドの隣で控えていた。
式典の場に黒いマント姿で不釣り合いだが、王も王妃も何も言わない。
皇太子の横にいてもおかしくない人物なのである。エミリアはなるだけ見たいように努めた。
 黒マントの男は、アルフレッドに透明な液体の入った瓶を渡した。
 ワインボトルと同じくらいの大きさでコルクの栓がしてあった。
アルフレッドはコルク栓を抜いて、中の液体を勢いよく飲んだ。
 式典が始まり、医学校の校長がエミリア達の紹介を始めた。
先に男性二人が紹介され、エミリアの番となった。
余計なことは言わずに挨拶だけをするように事前に打ち合わせしてあった。
「こちらは今年主席のエミリア・ルッジェーロでございます。
以前、宮廷医として勤めていたトルトゥラ・ルッジェーロの娘であります」
「よろしくお願い致します」
 エミリアが挨拶をすると、王妃と目が合った。王妃は目を見開き、驚きの眼差しでエミリアを見つめていた。
椅子から腰を浮かし、身を乗り出していた。
「トルトゥラの娘? じゃああなたも産科を専攻しているの?」
 王妃は四角い顔をしていた。皇太子そっくりで、親子であることが一目瞭然であった。
「いいえ、今は内科を専攻しております。いずれ産科もやってみたいと思っていますが……」
「トルトゥラって誰だ?」
 エミリアが言いかけたところで、皇太子のアルフレッドが遮る。
「あなたを出産したときに、取り上げた女医です」
「ほ〜う、そうなのか。それは優秀なんだろうな……」
 アルフレッドは細い目でエミリアを舐めまわすように見つめる。
その視線が少々気持ち悪く感じたが、態度には出さないようにした。
「よく見ると目元がトルトゥラに似てるわ。それに若いわね……
年は17より上には見えないわ。優秀なんでしょうね……」
 王妃がつま先から頭のてっぺんまで舐めまわすようにエミリアを見つめる。
善意か敵意かどちらかわからない視線に緊張が走る。どうしたらよいか分からずエミリアは息を呑んだ。
 校長がエミリアの次にサラを紹介する。サラの専攻と挨拶の終わったところで、アルフレッドが大きな咳をした。
「エミリア・ルッジェーロとやら」
「は、はいっ!」
 突然名前を呼ばれ、エミリアは声が裏返ってしまった。
 アルフレッドは椅子に腰かけたまま、瓶に入った透明の液体を一口飲んだ。
 黒マントの男から煙草を受とり、椅子に腰かけたまま煙草をふかし始めた。
 隣にいる煙のかかった王女が眉をひそめ、嫌そうな顔をしている。
「最近、疲れやすくて体がだるいのだ。充分に食事はとっているのに、時々立ちくらみもする。
この不調の原因は何かわかるか? エミリア・ルッジェーロ」
 エミリアはアルフレッドの言うことにしっかりと耳を傾ける。
「あの……一つ質問をしてもよろしいでしょうか? アルフレッド様」
「いいぞ、何だ?」
 アルフレッドは煙草をひとふかしする。
「手に持っている瓶の中身は何ですか?」
「この瓶か? これはただの水だ。ここ数年、異常に喉も乾くのだ。だからこうして水を手放さずいつも飲んでいるのだ」
 アルフレッドは瓶を片手に説明する。黒マントの男も無言で頷いていた。
「そうですか……」
 エミリアは数十秒考える。医学校で習ったこと、今まで読んできた本、論文の中から考えられることを頭の中でまとめた。
「エミリア・ルッジェーロ、この不調の原因は何と考える?」
 再び質問される。エミリアはアルフレッドを見つめ、背筋を伸ばして姿勢を正す。軽く深呼吸もした。
「これから申し上げることは、アルフレッド様にとって耳に痛いことかもしれません」
 エミリアは恐る恐る申し上げる。
「いいぞ、言ってみろ」
 アルフレッドは煙草を吹かせながらエミリアの話に耳を傾ける。
「まずは……お煙草をお止めになる事です。お水もそんなに頻繁にお飲みになってはよくありません。
それと腹八分目のお食事と適度な運動を実施すると良いと思われます。
すぐに効果は出ないかもしれませんが、日々の積み重ねが大事です」
 エミリアの言葉に、翡翠の間が静まり返る。
アルフレッドが一人、水の入った瓶を震わせ、怒りで赤ら顔をもっと赤くしていた。
「申し訳ありません、アルフレッド様。この者は未熟でございます。
大変失礼な発言、まことに申し訳ありません」
 校長はエミリアの前に立ち、青い顔でアルフレッドに頭を下げる。
隣の同級生の男子二人も青い顔でエミリアを見つめていた。
「どうして謝るの? 申し上げても構わないって仰ったから言ったのに……。
今の状態で煙草なんていいわけがないわ」
「エミリア! ダメだよ! 本当のことは言ってはいけない場合があるって教わったじゃない!」
 サラがエミリアに耳打ちしたが、静まり返っている広間では丸聞こえであった。
「サラっ!」
 校長がエミリアとサラの間に入る。
 真っ青を通り越して今にも卒倒しそうな表情であった。額には脂汗も浮いている。
 ガッシャン!
 ガラスの割れる音に広間の高い天井に響いた。
 その音に、皆震え、広間は水を打ったように静まり返る。
 アルフレッドは水の入った瓶を大理石の床に叩きつけ、息を切らしていた。
水溜まりの中に粉々に割れたガラスの破片が散っていた。煙草も床に落ち、細い煙を上げている。
「な、なんという無礼な……。煙草をやめろというのかっ! 
腹八分目の食事なんて何故、皇太子である私がそんな食事をしなくてはならない! 
お前などクビだっ! 宮廷医など首にしてやる! そっちの背の高いブロンドの髪の女もだ!」
 アルフレッドはエミリアとサラに怒鳴りつけた。
 赤ら顔は更に真っ赤になり眉間にくっきりと皺が寄っていた。四角い顔は鬼の形相であった。
「ひっ!」
エミリアとサラは身を寄せ。震えあがる。
「アルフレッド様。この者たちは大変優秀な者です。無礼な態度は以後改めさせます。どおうかお許しを……」
 校長が床に膝をつき、頭を下げる。サラに肩を捕まれ、床に座らされる。校長に習い、膝をついてひれ伏した。
「申し訳ありませんっ!」
 二人で声を揃えて謝る。
「許さぬ。医師なんかより祈祷師のほうがずっと役に立つ。なあ、祈祷師よ」
「さようでございます」
 黒いマントの中で、白い歯がキラリと光った。アルフレッドのすぐ側で控えていた男は、祈祷師だったのだ。
病を治すのは、医術ではなく、まだ祈祷に頼る部分もあった。
病には心の拠り所が必要な時もあるから、医学校では否定も肯定もしない分野であった。
祈祷の慣習がまだこの王宮にも根付いているらしい。黒マントの男は、アルフレッド専属の祈祷師なのだろう。
「我が祈祷師は、煙草は精神を落ち着ける良き物だと言っておる。なので煙草をやめる気はない」
 祈祷師が新しい煙草を渡し、火をつける。その姿をエミリアとサラ、医学校の校長は呆然と見ていた。
「煙草にはそういった効果もありますが、お体の不調が直るまではやはり控えた方がいいと思います」
 エミリアは床に座ったままアルフレッドに言った。アルフレッドは手に持った煙草を落としそうになる。
校長とサラが青い顔でエミリアの袖を引っ張っている。
「くくくくくっ!」
 静まり返った広場にどこからか笑い声が聞こえてきた。声は王子、王女の集まる席の後ろの席から聞こえてくる。
 前列の王子王女が振り返っていた。後列の中央でお腹を抱えて笑っている王子がいた。
 癖のある短い金髪に青い瞳。年はエミリアより少し上の20歳くらい。その顔には見覚えがあった。
「あれ? あの人さっきエミリアと一緒にいた人じゃ……」
 サラがエミリアを勢いよく振り向く。
「レオナルドさん……」
 エミリアが王子を見て呟く。
 式典に来る前、髪にデイジーの花をさしてくれた男性だった。
翡翠の間がどこかを聞いたら簡単に教えてくれた。それもそのはずである。
王子だったのである。よく考えれば身なりが整っていた。詰襟に肩に装飾の付いた上着を着ていたのだ。
身分の高そうな人だとは思ったが、まさか王子だとは思わなかった。
そう言えば王子様らしい落ち着いた品のある顔立ちをしている。
「アルフレッド兄上にそこまで言えるなんて大物だ。二人は大変優秀な女医らしいじゃないですか。
父上、ちょうど私付きの医師が辞めてしまったところです。
二人をクビにせず、私付きの医師にしてはもらえないでしょうか?」
 レオナルドは椅子から立ち上がり、国王に向かって言った。
「そうね、トルトゥラの娘をクビにするのはもったいないわね。
まだ若いし、未熟な部分は改めさせればいいわ」
 国王より王妃が先に納得してしまった。
「まあ、いいだろう」
 国王がレオナルドを見つめた。
「ありがとうございます。父上」
 父に礼を言った後、レオナルドは笑顔でエミリアを見つめる。
澄んだ青い瞳がまっすぐにこちらを見つめていた。
 エミリアは呆然としてしまい、サラに小突かれて我に返り、礼を言った。
「ありがとうございます。これからよろしくお願い致します」
 エミリアとサラは深く頭を下げた。校長もその横でホッと胸を撫で下ろしていた。
「アルフレッド兄上、二人を私付きの宮廷医にしてもよろしいでしょうか?」
 レオナルドが兄に向かって言った。アルフレッドは不機嫌な顔で煙草を吹かせる。
「勝手にしろ。だが、無礼を働いた二人に罰を与える。そうだな……掃除でもしてもらおうか」
 アルフレッドはニヤリと笑う。赤ら顔の頬の肉は横にグニャリと歪む。
煙草を大きく吸い込み、煙を二人に向かって吐いた。距離があるので煙は届かなかった。
だが、煙草の臭いは時間差で二人の鼻にも届いた。
 アルフレッドの威圧感にエミリアとサラは何も言えず震えあがる。
 式典は終わり、国王と王妃が退出した。エミリア達は頭を深く下げて見送る。
王子と王女たちが続いて退出すると、レオナルドがエミリアの方へ歩いてきた。
「助けて頂いてありがとうございます。王子殿下とは知らず中庭では失礼いたしました」
 エミリアはレオナルドに向かって深く頭を下げる。
「式典に参加する医師だったんだな。驚いた」
「はい」
 エミリアは笑顔で頷いた。
「こんなに若くて美しい女医さんを二人も捕まえるなんて、レオナルド様も隅におけないな」
 レオナルドの背後からもう一人男性が現れた。
 レオナルドと同じ金髪とアイスブルーの瞳を持ち、背は少し高かった。
双子とまではいかないが、顔が似ていた。似ているが、レオナルドよりも妙な色気がある。
金髪は肩まであり、前髪はゆるりと耳の方へ流れている。きりりとした眉に整った目鼻立ち。
まるで絵の中から飛び出してきた王子様みたいだ。
でも王子ではないのだろう。式典でこの男性は王子の席にはいなかった。
「妙な言い方するんじゃない、ウィル」
 レオナルドは眉間に皺を寄せ、肩に乗った手をどかした。
「女医さん方、はじめまして。私はレオナルド様の従兄弟のウィルと申します。
私の母とレオナルド様の母君が姉妹です。お二人のことは広間の隅の方から見てましたよ。なかなか勇気のある女医さんだ」
 ウィルはエミリアとサラの顔を見つめながら一礼する。
 従兄弟なら似ていてもおかしくない。きっとレオナルドもウィルも母親似なのだろう。
 エミリアとサラは、ウィルの色っぽさと美しさに見とれながらも「よろしくお願いします」と挨拶をした。
「ここではあまり話ができない。明日、また王宮に来てくれないか。明日の予定は?」
 レオナルドは左右を見回す。広間に残った者たちが、興味津々にエミリア達をジロジロと見ていたのだ。
「あすの午前中は学校ですが、午後の予定はありません」
 エミリアは簡潔に答える。
「じゃあ明日の午後、琥珀の間に来てくれ。城門で名前を言えば大丈夫なようにしておく」
「琥珀の間ですね。わかりました」
「じゃあ、明日」
 レオナルドは二人に笑顔で手を振った。彼の後ろからウィルも嬉しそうに手を振っている。
「はい、よろしくお願いします」
 エミリアとサラは丁寧に頭を下げた。二人が翡翠の間から出て行くまでその姿を見送った。


3. 肖像画

 翌日、医学校に行くとエミリアとサラはクラスの女子数人に囲まれた。
 医学校は男性が殆どで、女性は全体の1割ほどしかいない。
国には勉学は男性がするものだという考えが根付いており、また女医を志す者も少なかった。
「エミリアとサラすごい! 第四王子レオナルド様の侍医になったんだって?」
 女子の中でも一番のお喋りなミラベルが目を輝かす。
エミリアよりも2歳年上の裕福な商人の娘である。
 噂好きで医学校のことはもちろん、街の流行や王宮の内情まで、よく知っていた。
 他の者も昨日の式典での出来事が知りたくて、うずうずしているという感じだった。
「うん、ちょっと成り行きでね。レオナルド様に助けて頂いたの」
 エミリアは苦笑いする。サラも隣で同じような表情をしていた。
「第四王子のレオナルド様と言えば、生まれてすぐに母君を亡くされて、
ご本人もお体が弱くて『短命の王子』って言われてたのよね。
だけど、最近は身長も伸びて、お体も強くなられたみたいじゃない?」
「そうね、ご病気のようには見えなかった。お元気そうだったわ」
 早口で喋るミラベルにエミリアは圧倒される。
「第四王子で、母君も早く亡くなられているから、帝位には遠い王子って言われているけど、
王子殿下の侍医なんてすごいじゃない! 宮廷医になっても、なれるものじゃないわよ。さすがトルトゥラの娘!」
 ミラベルは一人で喋って一人で納得していた。
「女医が珍しかったのかしら?」
「あ、もしかしたら美人なサラ目当てかもよ」
「サラは貴族の娘じゃないけどね」
 他の女子たちが意地悪く笑う。この手の嫉妬はいつものことだった。エミリアとサラは聞こえないふりをした。
「でも残念ね。どうせならイケメンの第一王子の侍医になりたかったわね。第四王子はちょっと顔はイマイチよね……」
 ミラベルが残念そうに言った。
「何言ってるの? ミラベル。第四王子は格好良かったわよ」
 サラが即答する。
「え? サラもそう思うの?」
「そりゃそうでしょ。普通に格好いいと思うわよ」
 サラがエミリアを見て頷く。
「そうなんだ。サラもそう思うんだ……」
 デイジーの花壇の前で出会った時、レオナルドを格好いいと思った。
人によって美的感覚はそれぞれだと思うが、サラも同じことを思っていて少し安心した。
「えっ? だって肖像画ではあんまり……」
「肖像画?」
「うん、医学校の入口に王族方の肖像画があるじゃない。それでは格好いいと思えないけど……」
 ミラベルが複雑そうな表情になる。3人で医学校の入口まで移動した。


 医学校の入口に王族の肖像画があるのは知っていたが、毎日のように通るので、
すっかり風景の一部になっていた。立ち止まってじっくり見るなんてことはなかった。
 入口の正面に王と王妃の肖像画があった。昨日の式典以外にも、
遠くからだが何回か二人の顔は見たことがある。少々若い気もするが、
肖像画は見たままの王と王妃である。その脇に王子と王女たちの肖像画か並ぶ。
「ほら、あれが第四王子じゃない?」
 ミラベルが入口に並んでいる第四王子の肖像画を指さす。
 エミリアとサラはミラベルが指さした肖像画のほうへ視線を向ける。
「誰? これ?」
 サラの美しい眉の真ん中に皺が寄る。
「え? 第四王子じゃないの?」
 ミラベルが不思議そうにエミリアとサラを見つめる。
「似てない……」
「全然違う!」
 エミリアが呟き、サラが首を横に振った。
「違うの?」
「うん!」
 二人は同時に頷いた。
 医学校の入口に飾ってある第四王子の肖像画は、本人とは似ても似つかない絵であった。
薄い眉に小さな目。それも右目と左目が異常に離れて描かれていた。
似ているのは顔の輪郭と金髪の髪色くらいであろうか。別人と言ってもいいくらいである。
だいぶ前に描かれたものなのかと思ったが、肖像画の右下に書いてあった日付は、
一年半前のものだった。すごく古いというわけではない。
「ほら、こっちが第一王子のアルフレッド様。アルフレッド様の方がずっとイケメンだと思うんだけどな!」
 ミラベルが指さす肖像画をエミリアとサラは見つめる。
「えっ!」
 二人は同時に声をあげた。アルフレッドの肖像画も本人と全く似ても似つかないものだったのである。
 こちらはだいぶ肖像画のほうが良く描かれている。
 きりりとした眉、バランスのとれた目鼻立ち、顎のラインもすっきりとしている。
似ているのは赤毛の髪型だけで、ほぼ別人と言っていいくらいである。
エミリアとサラはポカンと大きな口を開けて肖像画を見つめる。
「ねえ、エミリア、こちらはアルフレッド様の隣に座ってた王女様じゃない?」
 アルフレッドの煙草の煙に目を細めていた王女の顔が浮かんだ。
 こちらはまったく似ていないというわけではないが、実物よりも目が大きく、顎のラインがすっきりしている。
 肖像画の方がだいぶ美人である。
「そうだね、あの王女様みたいね……」
 医学校の入口に飾られている肖像画。
 王と王妃の肖像画は、ほぼそのままの当人だが、王子と王女があまりにも似ていない。
 不思議に思いつつ、エミリアとサラは肖像画を暫くの間じっと見つめていた。


***

 午後になり、エミリアとサラは王宮内部の政務区に向かった。
 政務区の入口で名前と要件を告げると話は通っているらしく、
エミリアとサラは内部に案内された。高い柱が並ぶ長い廊下を通り、琥珀の間の前まで来た。
 ――なんてご挨拶すれば良いのだろう。
 昨日は第一王子を怒らせてしまい、レオナルドに助けてもらう形となってしまった。
 やはり第一声はお礼を述べた方がいいだろう。そういえばミラベルがレオナルドは小さい頃、
体が弱かったと言っていた。レオナルドの侍医になったのだから、
今までの病歴を聞いてもいいのかもしれない。そのための宮廷医なのだから……。
 琥珀の間に着くと、入口に台車が置いてあった。どこかで見たことがあると思ったが、
レオナルドに会うことで頭がいっぱいで思い出せなかった。
「こちらが琥珀の間です。もう王子殿下はお待ちになっております」
 案内の衛兵がそう告げた。
「え? もうお待ちになっているの?」
 エミリアはサラと顔を見合わせる。
 昨日、午後に来るようにと言われただけだった。
 詳細な時間の待ち合わせはしていなかったので、
案内された琥珀の間でレオナルドが来るのを待っているものだと思っていた。
 政務区の入口から琥珀の間までは長い廊下を歩いてきた。
 その間に琥珀の間に来ていたのかもしれないけれど、先に到着しているなんて思いもしなかったのだ。
「失礼いたします」
 二人は一礼し、琥珀の間に入った。
 琥珀の間は、翡翠の間のような大広間ではなく、少人数で話をする部屋のようである。
 足元には毛足の長い赤い絨毯が引いてあり、その上には応接セットが置いてあった。
 ライオンの足をしたこげ茶色のテーブルと4つのソファーが設置されていた。
 ソファーは見た目の光沢からすると革張りだろうか? 
 黒く光る座り心地の良さそうなソファーは、こげ茶色のテーブルを挟んで二脚ずつ置いてある。
 レオナルドがソファーに座って待っていると思いきや、彼はソファーには座っていなかった。
 ソファーの後ろに気の乗らない顔をして立っている。
 その横には従兄弟のウィルの姿もある。同じように暗い表情をしていた。
「やっと来たか。待ちくたびれたぞ、女医ども」
 革張りの高級なソファーの上には、赤ら顔をした第一王子アルフレッドが座っていた。
 エミリアとサラを見てニヤリと笑う。隣には頭から黒マントを被った祈祷師もいた。
 琥珀の間の外にあった台車はアルフレッドが乗ってきた台車だったのだ。
 エミリアとサラは驚きの余り声も出ず、呆然と立ち尽くした。


4. アルフレッドからの罰

 アルフレッドは革張りのソファーに脚を広げて座っていた。
 背もたれに寄りかかり顎を少しだけあげて、うっすらと笑っている。
 昨日と同じく、指先の何本かにやはり包帯が巻いてあり、テーブルには水の入った瓶があった。
「座れ」
 アルフレッドは入口に呆然と立ち尽くしているエミリアとサラに向かって言った。
「は、はいっ、失礼致します」
 医学校の帰りだったので、医学書の入った鞄を持っていた。
 二人は鞄を床に置き、アルフレッドの向かいのソファーに遠慮がちに座る。
 緊張のあまり肩に力が入っていた。膝の上に手を乗せていると、
スカートの中で閉じた脚が微かに震えているのがわかった。
 琥珀の間にまさかアルフレッドがいると思わなかった。
 これから何を言われるのだろうか? エミリアは怖さと緊張で顔を上げることができなかった。
 昨日、アルフレッドを怒らせてしまった一番の原因は自分だ。
サラは巻き込まれたようなものである。まずは自分がアルフレッドに謝罪しなければならない。
 昨日も謝ったが、アルフレッドの怒りは収まっていないのだろう。罰を与えるとも言っていた。
 エミリアは顔を上げて、アルフレッドの顔を見た。赤ら顔でニヤリと笑みを浮かべていた。
「アルフレッド様、昨日は申し訳ありませんでした」
 丁寧に頭を下げて謝罪した。隣のサラも「申し訳ありませんでした」と続けて謝罪する。
「今日はお前たちに罰を与えに来た」
「はい……」
 サラと同時に頷いた。昨日罰を与えると言っていたのは本当なのだ。どんな罰だろうか? 
 やはり宮廷医をやめろと言われるのだろうか。念願の宮廷医になれたのに、
自分のこんな失態でクビになるのは嫌だった。
 自分だけならまだしも、今まで必死の思いで勉強してきたサラまで巻き込まれるのは本当に胸が苦しい。
「罰は……」
「はい」
 エミリアは顔をあげたゴクリと唾を飲む。次のアルフレッドの言葉を待った。
 もし宮廷医をクビだと言われたら、自分だけにしてもらおう。サラを巻き添えにすることはできない。
「お前たちの罰はだな……」
 アルフレッドはエミリアを見つめニヤリと笑う。宮廷医のクビではなく、なんとか謹慎くらいで済まないだろうか。
 エミリアは祈るような思いでアルフレッドを見つめる。レオナルドとウィルもアルフレッドの後ろで緊張した面持ちだ。
「罰はトイレ掃除をしてもらう」
「は?」
 エミリアとサラは目を丸くする。
 今、トイレ掃除と聞こえたが気のせいだろうか?
「私が使ったトイレの掃除をしてもらう。それがお前たち女医に対する罰だ! ハハハハハ!」
 アルフレッドの笑い声が琥珀の間に響く。
 隣に座っている祈祷師も黒マントの中でクスクスとおかしそうに笑っていた。
 エミリアとサラは顔を見合わす。
「罰は……トイレ掃除でいいのですか?」
 サラが静かにたずねる。
「そうだ。お前たちの罰はトイレ掃除だ」
 アルフレッドは満足そうに頷いた。
「はあ……そうですか……」
 エミリアは気の抜けた返事をした。
 てっきり宮廷医のクビを言い渡されるのかと思った。まさか罰がトイレ掃除だなんて夢にも思わなかった。
「早速、掃除をしてもらおうか。ついてこい、女医ども」
「はい……」
 アルフレッドは使用人を呼び、外に置いてある台車に移動した。
 ゴトゴトと音を立ててアルフレッドを乗せた台車は王宮の廊下を進んで行く。
その後ろをエミリアとサラが続き、アルフレッドの後ろで控えていたレオナルドとウィルがついていった。
 レオナルドがエミリアに並んだ。アルフレッドと祈祷師たちは前を進み、後ろを振り返ることはない。
 エミリアの耳元で「兄上が申し訳ない」と小さな声で囁いた。
 エミリアはレオナルドを見つめ笑顔になる。
 前を行くアルフレッドたちに気づかれないよう、「大丈夫です」と小さく返事をした。



5.掃除

 アルフレッドを乗せた台車は、政務区を通り抜け、王族の住む居住区にへ入っていった。
 王族の居住区は重厚な扉で仕切られており、扉の前には長い槍を持った門番が構えていた。
 アルフレッドの姿を見た門番は一礼し、扉を開けた。
 その後に、黒マントを被った祈祷師、エミリアとサラが続く。門番はエミリアとサラを遠慮なくジロジロと見ていた。
見られているはわかったが、エミリアは軽く会釈をして門番の横を通り過ぎた。
二人の後ろにぴったりとくっついてきていたレオナルドとウィルが門番を睨むと慌てて門番たちは視線を前へ戻した。
 政務区の大理石の床も充分に豪華だと思ったが、今、歩いている赤い絨毯の床はもっと豪華だった。
 落ち着いたワインレッドの絨毯が長い廊下に続いている。
絨毯は、毛足が短いため、アルフレッドの乗っている台車の車輪に引っかかることなくスムーズに進んでゆく。
 足音は絨毯にかき消され、何も喋らないと衣擦れの音のほうが大きいくらいだった。
 壁も天井も、政務区よりもずっと豪華だった。
 廊下の証明一つとっても、凝った装飾が為されており、
目に映るものすべてが豪華絢爛で美しかった。さすが王族の居住区である。
 赤い絨毯が敷き詰められた廊下の両脇には、等間隔で扉があった。
 扉の一つ一つはきっと王族方の部屋になっているのだろう。
 扉の前に部屋の名前はなく、同じような扉ばかりが並んでいた。
 何度も角を曲がり迷路のような廊下だった。一人では迷ってしまいそうだとエミリアは思った。
 だいぶ進んだところで、アルフレッドの台車が止まった。
 目の前にはクリーム色の扉があった。今まで見てきた扉と比べると、簡素な造りの扉だった。
 扉の前には顎髭のある初老の男が立っていた。少々、背中が曲がっているその男は、アルフレッドの姿を見ると、深く頭を下げた。
 アルフレッドは台車から降りて、エミリアとサラを振り返る。
「ここが私の専用のトイレだ。ここの掃除をしてもらう」
 アルフレッドはニヤリと笑った。
 まず王族には専用のトイレがあることにエミリアは驚いた。
 他の扉に比べれば簡素な造りだが、この奥にトイレがあるなんて想像できない。
「はい……」
 エミリアは小さく返事をした。後ろからついてきていたレオナルドは大きく溜息をついていた。
「掃除の仕方は、ここにいるススルタに聞け。そうだ……まず用を足そうかな……」
 アルフレッドは一瞬、エミリア達に視線を移す。初老の男、ススルタが扉を開けるとアルフレッドは中に入って行った。
 扉の外には台車を引いてきた使用人、黒いマントを被った祈祷師、
エミリアとサラ、レオナルドとウィルが残される。扉の横でススルタが皆を見つめオロオロとしていた。
「……長いわね」
 サラがぽそりと呟いた。耳を澄ますと微かだが用を足す音が聞こえた。確かに長いような気がする。
「しっ! サラっ!」
 エミリアはサラの服を引っ張る。アルフレッド付きの使用人と祈祷師に視線を移すと、
特に表情は変えていなかった。エミリアとサラに興味もないような様子であった。
「すまない……二人とも、こんな罰になって……」
 レオナルドが申し訳なさそうに謝る。
「いいえ、宮廷医の資格を取り上げられるかと思っていましたので、これくらい大丈夫です」
 エミリアはレオナルドに向かってニコリと笑う。
「お掃除も勉強の一つです。衛生面に気をつけるのも医師の仕事です!」
 サラがレオナルドとウィルに向かって笑顔で言った。
「衛生面? 掃除も関係するのか?」
 ウィルが不思議そうな表情でサラにたずねる。
「はい、汚水や汚物は伝染病の元になります。清潔にすることも大事な医療です」
「そうなのか」
 ウィルは顎に手を添え、サラの言うことに関心を示した。
 カチャリ。
 扉の開く音がした後、アルフレッドが出てきた。ススルタが深く頭を下げる。
「では掃除をしろ。お前たちへの罰はこれでおわりだ」
「はい。申し訳ありませんでした」
 エミリアとサラは深く頭を下げる。
「レオナルドとウィルは中に入ってはダメだ。お前たちは外で待つように」
 アルフレッドは後ろからついてきた弟に釘を刺した。
「はい……兄上」
 レオナルドは兄に何か言いたそうな表情であった。その横でウィルも難しい顔をしている。
 アルフレッドは再び台車に乗り、長く続く廊下へと去っていった。
「じゃあ、掃除をしましょうか」
「そうね、早く終わらましょう」
 エミリアとサラは、第一王子専用のトイレへと入って行った。
 中は予想以上にきれいなトイレであった。
 全体が石造りの部屋で広さは3メートル四方ほどの部屋だった。
 上部に窓もあり、通気性の良い造りだ。さすがは王族のトイレである。
 排泄用の溝さえなかったら、ここがトイレだとは誰も思わないであろう。
「トイレ番のススルタと申します。女医さん方、こちらの掃除は振りだけで結構ですよ。
アルフレッド様は気に入らない者の罰として、トイレ掃除をよく命じるんです。気まぐれですので私が掃除をしておきます」
 ススルタがトイレに入ったエミリアとサラに言った。
「大丈夫です。トイレ掃除なんてどうってことありません」
「そうそう、これくらい平気です」
 エミリアとサラはトイレ掃除番のススルタから掃除道具を借りる。早速掃除にとりかかった。
 ススルタに教わりながら掃除を始めた。まずは排泄用の溝に水を流す作業だ。
わざとかどうかわからないが、アルフレッドは直前にトイレを使用した。まずはそこから掃除をしなければならない。
 エミリアは水を汲み、排泄用の溝の前まで行った。水を流そうとしとしたところで、あることに気づいた。
 アルフレッドの尿が異常に泡立っていたのである。
 泡立つ尿。
 論文で読んだことがあるような気がする。何についての論文だっただろう。
 考えたがすぐには出てこなかった。
 アルフレッドの姿が目に浮かぶ。手には水の入った瓶を持ち、指先には包帯を巻いていた。
 もしかしたら、それと関係があるのかもしれない。家に帰ったら早速調べてみよう。
 エミリアはそんなことを考えながら排水溝に水を流した。
「ああ! また蟻が寄ってきている。朝、掃除したばかりなのに……」
 突然ススルタが外へ続く排水溝に向かって叫びだした。
「どうしたんですか? ススルタさん?」
 エミリアとサラはススルタと一緒に外へ続く排水溝を覗き込む。排水溝に無数の蟻が群がっていたのである。
「こんなに綺麗なトイレなのにどうして蟻が寄ってくるのかしらね?」
 サラが不思議そうに首をかしげる。
「蟻が寄ってきていることがアルフレッド様の目に触れては大変です。
掃除が行き届いていないと思われてしまいます。すぐに追い払いましょう!」
 ススルタはホウキで蟻を払い、排水溝に大量の水を流した。
「ねえ、エミリア。なんかこのお部屋、甘酸っぱい匂いしない? 微かになんだけど……」
「甘酸っぱい匂い?」
 ここはトイレだとわかっていたが、エミリアは鼻から大きく息を吸い込んだ。
 言われたとおり微かに匂いがするような気がする。
 甘酸っぱいというより、果物が腐ったような腐敗臭である。決していい匂いではない。
「そうなんです。どんなに掃除してもこの甘酸っぱい匂いが残ってしまい困っているんです。今日はこれでも匂いのしないほうです」
 ススルタは困った顔でエミリアとサラに説明した。
「ススルタさん。消臭剤になるアロマの薬草がありますよ。
今度持ってきましょうか? 芳香剤としてこの部屋の隅に置けますよ」
「それは助かります。サラさん。是非お願いします」
 サラは趣味で薬草を育てている。
 その中の一つに消臭効果のある薬草があるのだろう。エミリアも笑顔でススルタに頷く。
 掃除が終わりトイレから出ると、レオナルドとウィルが心配そうに待っていた。
「掃除が終わりました、レオナルド様。掃除が終わったことをアルフレッド様にご報告したほうがいいでしょうか?」
「それは帰りがけでもいいだろう。本当にすまない。まさか琥珀の間に兄上が現れると思わなかった……」
 レオナルドは大きく溜息をついた。
「昨日の式典での俺たちの会話を誰かが聞いていたんだろうな。
今日の午後、琥珀の間で待ち合わせするって約束を……」
「そうかもしれませんね」
 エミリアはウィルを見つめて頷いた。
「琥珀の間なんて誰でも来られる場所にしたことが間違いだった。
これ以上、邪魔が入らないよう、これから私の部屋へ行く」
「そうだな、レオナルド。それがいい」
「えっ! レオナルド様の……王子殿下のお部屋に行くんですか?」
 エミリアは驚いてたずねる。サラも同じく驚いているようで美しい瞳を丸くしていた。
「ああ、そのほうが邪魔が入らないからな。私の部屋はこっちだ」
 レオナルドは右の廊下を指さす。
「私の方から、掃除が終わったと伝えておきますよ」
「ああ、そうしてくれると助かる、ススルタ。後で兄上のところには挨拶に行く」
「はい、かしこまりました」
 ススルタが丁寧に頭を下げる。
「じゃあ、行こうか」
「は、はい……」
 エミリアとサラはレオナルドの後に続く。
 赤い絨毯の敷き詰められている長い廊下を、そわそわする気持ちで歩いて行った。


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